彼女には忘れられない人生の2年間がある。
“ボブ・ディランと過ごした”2年間だ。
「あのころ、彼は毎日わたしたちのアパートに来てね」
そう回想するのはSali Ariel(サリ・アリエル)69歳、1969年から71年をボブ・ディランと過ごした画家。
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Image via Sali Ariel
デビューから7年、名声に疲れ果てマスコミから姿を消すようにしていた隠遁時代のディランがほっと一息つける場所。それがサリのアパートの一室だった。
これは、ボブ・ディランの世に知られていない姿を2年間そばで見守ってきた、彼女の追憶だ。
音楽は“人並みに好き”だった少女がディランに会うまで
「ディランを初めて聴いたのは、大学生のころ。たしかセントルイスであった彼のコンサートにも行ったかもしれないわ。ビートルズの『ラバーソウル』が発売されたころね」
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Image via Paul Townsend
アメリカ生まれ育ちのユダヤ系アメリカ人のサリ。美大生のころに出会ったユダヤ系アメリカ人のテリー・ノーブルと結婚、イスラエルに移住後、彼とともにニューヨークへやって来た。
「それはもうセックス・ドラッグ・ロックンロールの時代よ」ー“ジャニス・ジョプリンみたいなパーマのロングヘア”だった新妻のサリ。「でもね私、音楽は好きだったけどこれといって大ファンのバンドがいるわけでもなく、追っかけもしなかった。いわゆるグルーピーみたいな女の子たちは好きじゃなかったの」
そんな音楽は“人並みに好き”程度だった彼女が、もじゃもじゃ頭にサングラス、20代にしてすでに時の人だった孤高のミュージシャン、ボブ・ディランに出会う。1969年、サリ21歳のときだった。
「夫の友人を介して知り合った。夫を一目見たディランが『あれ誰だ?』ってね。彼がユダヤ系とわかると、同じユダヤ系のディランはぜひ話してみたいと。その1週間後には私たちのアパートに遊びに来るようになったわ」
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Image via Simon Murphy
ワンベッドルーム。ギターとゲームとそしてディランと
「ディランはレコーディングが終わるとふらりと訪ねてきた」
当時28歳のボブ・ディラン、グリニッジビレッジの自宅に帰る前にスタジオから出たその足でユニオンスクエアにあった夫妻のアパートに1、2時間立ち寄ることが日課になった。
ディランの第一印象は、「小柄でシャイなひと」。サリのアパートでも言葉少なだったという。
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Image via Paul Townsend
「その頃うちにはビデオカメラがあって。彼とアパートで過ごす時間をビデオに撮ることにしたの」
ワンベッドルームの小さなアパートに、サリとテリー、ディランの3人。
「私はカメラを回す“監督”役。あとは2人のためにコーヒーを淹れたり、クッキーを焼いたり」。
ビデオテープには、サリのギターをふと手に取りブルースのリフをぽろぽろ弾くディラン、ベッド脇の椅子に腰かけテリーとシェシュベッシュ(イスラエルのボードゲーム)に興じるディラン、公園で描いたスケッチや書きかけの歌詞をサリに見せるディランがいた。
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Image via Miquel C.
当時のビデオカメラにはオーディオに加え、サウンドを生録音できる機能があった。
「テリーと私が小旅行で撮ったビデオにサウンドトラックを付けようと、ディランがギターで曲を弾いてくれて。ある場面で曲がだんだん消えていく感じにしたかったから、“ギター弾くのやめて”ってディランに言ったのね。あとで夫に『ディランに演奏止めろと言ったの、この世でお前だけだぞ』って怒られちゃったわ」
ディランがディランであった場所
ミネソタ州にユダヤ系移民の子として生まれたボブ・ディラン。この頃自身のユダヤ系ルーツを探求したい、とテリーからヘブライ語やシオニズム(パレスチナの地にユダヤ人の祖国づくりを目指すユダヤ人の祖国回復運動)の思想を習っていた。
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Image via Paul Townsend
寡黙ではあったものの彼は、少年時代やベトナム戦争、ニクソン政権について、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、マディ・ウォーターズ(伝説のシカゴブルースマン)など好きなミュージシャンのこと、そして移籍したレコードレーベルの文句などをぽつりぽつり口にしていたという。
「一度こう聞いてみたことがあるの、『これだけ有名になるのってどんな気分?』。そしたら彼、こう言ったわ。『あまり好きじゃないな。若い頃は有名になるためにがむしゃらだったけど、有名になったらなんだか違う人間になったみたいだ』とね」。
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Image via Paul Townsend
フォークシンガーとしてデビューしたディラン、若干22歳で発表した『Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)』(1963年)はアメリカ公民権運動の賛歌となり、“フォークの貴公子”として一世を風靡する。
ビートルズ旋風の60年代半ばにはフォークの文学性とロックを融合しようと、アコギからエレキに持ち替え『Like a Rolling Stone(ライク・ア・ローリングストーン)』(65年)をかき鳴らしフォークファンから“裏切り者!”と非難された。
そして絶頂期を迎えた矢先にぶち当たったドラッグ問題、そしてバイク事故。60年代後半は休養もかね、あの伝説のロックフェスティバルで有名なニューヨーク州郊外ウッドストックで隠遁生活を送り、その後グリニッジビレッジに拠点を移した。
この時期、コンサートツアーをすることや、自分のことを神のように扱うマスコミに辟易しストレスを感じていたディラン。失言してマスコミの餌食になってしまわないかいつも神経を尖らせていたという。
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Image via Paul Townsend
「彼はすごくいい人で天才的。でも有る事無い事書くマスコミに神経質になっていた。だから世間から一歩引いて社会や日常を俯瞰して、自分の見たこと思ったことをそのまま歌に投影していたわ」
詩人としてノーベル賞やピューリッツァー賞を受賞したこともあるディラン。日常では余計な口は出さず、自分の曲のなかで想いを詩的に吐露していたのだ。
ジョン・レノンにウォーホルも。ディランとの探検
ディランとサリとテリー、ときにはアパートを出てニューヨークの街に繰り出したという。そんなときもサリはビデオを持って歩いた。
「大きなカメラを肩からぶら下げ、地下鉄に乗って。ディランは地下鉄が大好きだったのよ」
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Image via RV1864
グリニッジビレッジのファラフェル(中東のベジタリアン料理。ひよこ豆を使ったコロッケのような揚げ物)レストランや、マクドゥーガルス・トリートにあるバー「Kettle of Fish(ケトル・オブ・フィッシュ)」で腹を満たし、お気に入りスポットのワシントンスクエア・パークでは、公園の人たちに混じってチェスを観戦したり参戦したりしていた。
またディランは夫妻を、ジミ・ヘンドリクスのレコーディングスタジオや、ジョン・レノンとヨーコ・オノのアパート、アンディ・ウォーホルのアートスタジオ「シルバーファクトリー」にも連れて行ったのだとか。
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Image via Ky
ディランが来るようになってから「文化人のサロン」と化したサリのワンベッドアパートメント。
ベトナム戦争に揺れた時代、西海岸ではヒッピーたちがラブ&ピースを掲げるなか、ニューヨークでは、青年国際党を率いる政治活動家アビー・ホフマンを中心に、左翼主義活動家のジェリー・ルービンやラジオDJのボブ・フェス、ビートニク作家のアレン・ギンズバーグなどのベトナム戦争反対派たちが集結、彼らは「イッピー(Yippie)」と呼ばれていた。サリの夫もその仲間のひとりだった。
マリファナを燻らせるテリー、カメラに向かってふざけて胸を出すサリ、政治談議に花を咲かせるイッピーたち。文化人のたまり場になったアパートでの分秒をテープはしっかりと捉えていた。
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Image via Archives Foundation
当時結婚し子持ちだったディランにとって、スタジオでの仕事を終え家族が待つ自宅に帰る前の束の間のひととき。
「私たちのアパートがほっと一息つく場だったのね」
仕事、家族、マスコミ、ファンのことも忘れて「ボブ・ディラン」というひとりの人間に戻れる、その時間を過ごしたのがサリーのアパートだったのだ。
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Image via Paul Townsend
二度と再生されないディランとの日々
71年に夫妻がイスラエルに戻ったことをさかいに、ボブ・ディランとの毎日は幕を閉じた。
ディランとは国際電話越しに何回か話したものの、やがてサリとテリーは離婚。その後サリはディランに会うことはなかったという。
サリが撮った2年間分のテープは、別れた夫に預けたまま行方がわからなくなってしまった。「靴箱に整理してひとつひとつしまっておいたの。でももう二度と私の手元に戻ってくることはないわね」
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Image via RV1864
二度と再生されることのないテープには、ボブ・ディランが頑なに守った私的な時間と、イッピーの妻として文化人に囲まれディランの友だちとして過ごしたサリの2年間が刻まれていた。
今はもう無きテープの断片を追憶のなかでつなぎ合わせてくれたサリ。ディランのことを時おり“ボブ”と呼んだときの彼女の気持ちはきっと、“ジャニス・ジョプリンみたいなパーマのロングヘア”のサリのままだったろう。
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Text by Risa Akita