青果店のことを「八百屋」という。なぜ“八百”なのかと調べてみると、「八百(やお、はっぴゃく)」は「数多く」を意味するので、つまり数多くの野菜や果物を取り揃えているお店のことを八百屋というらしい。
ニューヨークの下町ブルックリンにも一軒、たくさんの野菜と果物と人情を並べる八百屋がある。奥から出てきた店主は、白い前掛け姿に野菜や果物が描かれた自分の店のTシャツ。八百屋業を、八百ではなく“八十”年営んできたコルテーゼさんだ。
八百屋の店主、ジョン・コルテーゼさん。
80年八百屋。94歳のベジタブルマン、コルテーゼさん
ズッキーニのように深い緑の軒先に、パプリカのような陽気な黄色の看板が乗っている。ブルックリンの南の方にある八百屋「ゴールデンゲート・ファンシー・フルーツ・アンド・ベジタブル」の扉は、朝9時から控えめに開いていた。すでに先客がいる。
「これまで長く生きてきたが、彼のような人に会ったことはなかった。全大陸を放浪してやっとこさ巡り会えた、そんな人だ。彼は特別な人だよ」と先客のお馴染みさん。“彼”と話す前に、その人柄がわかってしまった。「彼を照れさせるのもアレだから、もうおいとまするよ。じゃあな、ジョン」。その横で案の定、少し照れた表情をしていたのはジョン・コルテーゼさん。94歳。14歳からこの八百屋で働いてきた80年のベジタブルマンだ。八百屋は英語で「ベジタブルマン」、なんとも率直な呼び名だ。
コルテーゼさんの八百屋が創業したのは、第二次世界大戦がはじまる前の話。彼の父親が1939年に開店。それ以来、一度もこの場所を動いていない。14歳だったコルテーゼ少年は、学校から帰ってくると、父親の手伝い。リヤカーに野菜を積み、一軒一軒お客の家まで宅配した。キィキィ音を立てるリヤカーに群がる野良犬たちに囲まれながら。
「この店にあるものはすべて1939年と同じまま。あそこにかかっている古い秤も。“これ”以外は」と言って、八百屋を手伝う息子のジョンを指差す。
第二次世界大戦で兵士として出征、帰還したあとも八百屋を続け80年、同じ店でいつもの前掛けで八百屋に徹している。80年八百屋のコルテーゼさんに、八百屋の“八百(たくさん)”を教えてもらう。
「野菜に触れる指が、“YES”というんだ」
「たんぽぽ、ムラサキオモト、セロリアック、ルバーブ、カラード・ラーブ…」。人生でいままで耳にしたことのない野菜の名前が、コルテーゼさんの口から30秒ほど止まらない。昔は一般的に食べられていたのに、いまはもう食べる人がいなくなり棚から消えてしまった野菜たちだ。「もういまの人たちは、こういう野菜をどうやって食べるのか知らないんだ」
コルテーゼさんの八百屋には、思いつく野菜や果物はたいていある。行きつけの卸売市場に通い、棚の空き具合で「カラードグリーン、ニンニク、サツマイモが足りないな」と仕入れる野菜や果物の種類を決める。長年の八百屋の勘と感覚だ。いい野菜の選び方は、父親を観察して学んだという。「ある日、父と野菜市場へ行った。父はインゲン豆がたくさん入った袋に手を突っ込んで、中身をくまなく“検査”していたんだ。そりゃ市場の人は嫌がったさ」
父親から継いだ八百屋の血筋にいい野菜や果物の見分け方を問うと「指を這わせるだけで『YES』という。メロンなんかはポンポンと叩く。指でつついてみると、ちょっとぐにゅっといくくらいがいい。それに、ぶかっこうな見てくれの野菜や果物の方がおいしいんだ」。それにいまはダンボール箱だが、昔はメロンもブドウも木の箱に詰められていた。「野菜も高くなったもんだねぇ。昔なんか、トマト4つで99セント(110円)、じゃがいも2キロで90セント(100円)」。いまは安くてトマト4つで400円、じゃがいも2キロ(およそ10個)で500円くらいだ。「じゃがいもの芽はきちんと取り除きなさいね」
八百屋の野菜への好奇心はやまない。「日本の八百屋にも同じ野菜があるのか? そういえば、平らなスイカがあるって聞いたけど、本当かい?」。いっとき話題になった立方体の容器に入れて育てられた四角いスイカのことも、もちろん知っている。
おもむろにじゃがいもを手に取り、じゃがいもをネズミに見立てて動かす。コルテーゼさんの十八番「じゃがいも鼠」。八百屋は手品もできるらしい。
お客の好きな野菜を覚える。試食してもらって、たわいのない話をする
80年八百屋のコルテーゼさんは、すこぶる記憶力が良い。ジョン(息子)がある話をしてくれた。
「ある日、若いお客さんが来て『70年代、ぼくのばあちゃんはここでトマトをよく買ってたんです』と言いました。父は『ちょいとお待ち。あの方の住所は…』。40年前のお客の住所を覚えていました」
八百屋は、そして話好きでもある。まるで昔から知っている間柄のように話しかけてくる。息子に連れられ店の奥の案内をしてもらっていると、店先から筆者の名前を叫びながら「早くこっちに来て、話をしないかね!」。お客との掛け合い、軽口、世間話。八百屋たるものの旨味でもち味だ。
店を贔屓(ひいき)にしてくれたお客たちは、野菜の種類のようにいろいろだった。イタリア系の主婦、ドイツ系のご近所さん。黒人のバス運転手。コルテーゼさんに元気をおすそわけしてもらうためだけに来る女の人。「お客一人ひとりが好きな野菜を覚えるんだよ。『いいの(野菜)が入りましたよ。甘くておいしいよ』と勧める。みんなそれぞれ好みが違うからねぇ」。気難しいお客には「試食してみてって。たわいのない話をして打ち解けるんだ」。八百屋になって料理の仕方を覚え、お客に野菜のおいしい作り方を教える。「玉ねぎとピーマンをガーリックで炒めて、イタリアンパンに挟んで食べるとおいしいんだよ」
宣伝は一切せずとも、八百屋の評判とコルテーゼさんの八百屋節は人づてに広まる。野菜の宅配を手伝うデリバリーボーイたちはコルテーゼさんを父親のように慕っていた。しかし、80年という長い年月のなかでは、商売がうまくいかない時期も当然ある。それに、多くの常連客や市場の人たちは逝ってしまった。4年前には妻に先立たれ家にいても焦燥感に駆られるので、近所で最後となった八百屋で今日入った野菜を並べる。
最近は八百屋でなくスーパーやオンラインショップで青果を買う人が多いですが、といえば「彼らには彼らの好きなようにさせてあげなさい。わしはわしがしなければいけないことをしたいだけ」。最近の人たちは健康ブームもあって野菜にもこだわりますね、には「オーガニックの野菜や果物を仕入れたときもあったんだけど、高いからみんな買えないんだよ。だから、あまりオーガニックにはこだわらない」。80年も八百屋を続けられる源はなんでしょう、と聞けば「隠居? なんのためだい? わしを隠居させたいなら、ここの店から担ぎ運ぶことだにゃ」。そう言っては、目を一本にさせてくしゃくしゃ笑うのだ。
「いい八百屋になるには? わしが知りたいよ」
八百屋人生80年、八百屋風景にも変化はあった。野菜の値段は高くなり、秤はデジタルになり、木の箱はダンボールになり、近所の人間模様も移ろう。では変わっていないものはなにかと尋ねると、自分を指差した。「八百屋を80年間続けられた理由は、父そのものですね。お客さんの彼に対する気持ちです」と息子。人好きのするコルテーゼさん、「人が好きなんだ。八百屋はとてもたのしい趣味のようなもの」
コルテーゼさんには、店番のときに座る定位置がある。野菜棚の空いた一段めだ。80年売りさばいてきた野菜の隣に腰掛ける八百屋に、“いい八百屋とは”を聞くと。「いい八百屋になるには? わしが知りたいよ。みんなわしのことをいい人だというけど、みんなとなんも変わらん。ただ人に親切にするだけ。それだけ。特別なことなんてないよ」
左はお店をヘルプしている息子さん、ジョン。
コルテーゼさんの肌のようにツヤツヤ光る野菜や果物の上には、彼がどこかの雑誌で見つけ書き写した詩が黄ばんでいた。題名は『貧しい八百屋(Poor Grocer)』。
疲れ切った商人が天国の門の前に立ち、天国の門番・聖ペトロにこう尋ねられる。「あなたは人生でなにを果たしてきましたか?」。商人はこう答える。「地上で、長い長いあいだ八百屋を営んでいました」。すると「もう“地獄”はじゅうぶん噛みしめたでしょう」と天国への門は開いた。
野菜天国に住む八百屋コルテーゼさん、“地獄”なんて、また冗談いっちゃって。
Interview with John Cortese
All Photos by Kohei Kawashima
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine