エマ・ワトソンは間違っていない。でも、叩いている人たちも別に間違っているわけではない。
先月の“エマ・ワトソン下乳騒ぎ”は記憶に新しい(日本以外で下乳、というワードを使っていたメディアはないが)。もう一度「フェミニズムとは何か」を考えさせられるいい機会になった。知らない人もいると思うので、あの騒動の簡単な振り返りをするとこうだ。
近年、フェミニスト活動家として知られるエマ・ワトソン。国連UNウィメンの親善大使に選ばれ、25歳の若さで国連本部でスピーチをこなすなど、活動を見ればその本気の具合がうかがえる。そのエマ・ワトソン、ヴァニティ・フェア誌面に写真家との写真作品が世間に公開されると、一斉にコメントを浴びた。賞賛ではなく、あられのごとく降りかかったのは批判。「エマ・ワトソンは偽善のフェミニストだ」。
それは、その写真で、エマ・ワトソンが胸の一部を露出していたから、である。これまで女性の権利を散々訴えてきたのに胸を見せるってどうなの? 男の気を引いてフェミニストだなんて笑わせる、と。
そこでエマ・ワトソンはこう主張した。「フェミニズムの本質を理解していない。わたしのおっぱいがフェミニズムとどう関係するのかわからない」。好きな格好をするのとフェミニズムには一切関係はない。だが、ここでまた「おっぱい出すフェミニストの意見が真剣にとらえてもらえると思ってるの?」。
さて、一体どっちの言い分が正しいのか? 結論からいえば「どっちも間違ってはいない」と思うのだ。
信じるフェミニズム、世代間のズレ
筆者のいるニューヨークという街では、フェミニズムという概念が当たり前で、電車に乗れば誰かがその話題に触れ、バーで飲んでいればどこかの女性がアツく語り出し男性たじたじ…なんていう場面はよくある。
友人とも会話に上がるし、取材でもよくフェミニズムという概念には触れられる。特に、女性起業家、クリエイターらにおいてはフェミニズムへの見識は深い。そういった人たちの取材ではフェミニズムの話はよく出てくる(企業や経営理念にもナチュラルに組み込まれていることも少なくない)。
まず、今回筆者が「どちらも間違っていない」という見解に行きついたのも、こういった実際の現代女性らのフェミニズムへの理解から考えたものだと念頭に置いてほしい。
今回のエマ・ワトソン騒動でもっとも荒れたコメント欄は「エマ・ワトソン、胸を見せるっていかがなもの?」と先陣切って発言したジャーナリスト、ジュリア・ハートレイのツイッターアカウントだった。あらゆるメディアがその関連の記事を出すにあたり、彼女のツイートを引用。そのうえで、「こっち(ジュリア)が間違っている。多様な人間を受け入れるのがフェミニズム」と見解を示したが、これだけじゃ説明にならないよなあと思った。
実際にジュリアと同様の発言をしている人も多く、さらに彼女らは自らをフェミニストとして疑っていない。そういった人が多くいるのに「いや、そっちが間違ってる」合戦で済ませてしまうのは、それこそフェミニズム=多様な人間の受け入れ、に反することにならないだろうか。
ジュリアの発言に戻ろう。彼女の発言とコメントから「自らを真剣にフェミニストとする者が胸を見せるのはいかがなものか」と考えていることがわかる(後からいろいろコメントをしているけれども)。そして、彼女を擁護するタイプのコメントも同じような内容だ。フェミニズムを語るなら、おっぱい見せるなんて矛盾だ、ちゃんと発言と行動を一貫させなさいよ、と。一方、それ以上にエマ擁護ツイートが多く「じゃあおっぱいがある女性はフェミニストじゃないんだ」「着るものとフェミニズムは関係ない」などなど。
これらコメントの溢れかえるツイート欄から気づくことは、エマ擁護にはエマと同世代が多く、ジュリアと同意見を持つのはジュリアと同世代の人間が多いということ。ジュリアは、1968年生まれ現在48歳。一方、エマ・ワトソンは1990年生まれの27歳。つまり、ここから「世代によってフェミニズムへの理解と理念がズレている」ということが考えられる。実際に、これは取材を通してフェミニズムについて会話をした多くの女性に見受けられた。どの世代のフェミニズムに影響を受けているかによって、それぞれの考えるフェミニズムには違いが生じているのである。
・ファーストウェーブ:フランス革命後に形成され、19世紀後半から20世紀初頭にかけて興隆
・セカンドウェーブ:20世紀初頭から1970年代
・サードウェーブ:1990年代〜(80年代からとされることも。※あらゆる見解があり諸説が乱立、決定的な学説が確立されていない)
今回の論争を読み解く鍵となるのが、セカンドとサードウェーブだ。この二つのフェミニズムには、その考え方において真逆ともいえる大きなギャップがある。以前、サードウェーブ・フェミニズムをコンセプトに生まれたチョコレート・ブランド、Haute Chocolate(オート・チョコレート)のファウンダー、ベリルがその見解をわかりやすく説明してくれたので改めて共有したい。
彼女の見解によると、まず、セカンドは「女性らしさの排除」、対してサードは「女性らしさと女性の独立の同居」がそれぞれのフェミニズムの軸となっている。
60-70年代で興隆したセカンドウェーブでは、「男性と同等の地位を求めるために、女っぽさ、女らしさは表に出さない(女性らしさを助長する、セックスアピールの強いファッションを排除すべきという主張もあった)」という考えが主流で、『社会で男性同様、活躍する強い女性』というイメージのもとに女性像が固定されてしまった。社会における、いわゆる女性の役割を決めているのは身体的なイメージも含めて女性らしさだ、という考えが強かったからだという。フェミニズムの女性=なんか怖い、強い、というのはだいたいこの辺のイメージではないかと思う。
一方で、90年代に醸成を見せたサードウェーブは、がちがちに固められていくセカンドウェーブのフェミニズムに対して、「男性にアピールする女性本来の美しさ・セクシーさ、女性っぽさがありながら強い女性でもいられるんじゃないかしら」と考えた。
これはセカンドウェーブの時点で法的、社会的な地位がある程度整ってきたこともあり、今度は「女性が独立するために、どうして女の性を閉じ込めないといけないんだろう」という考えが生まれてきた。女性としての自分を尊重しながら自分らしくいる、というのが現代女性の核心になったのだ。
まさに、サードウェーブのこの点がエマ・ワトソンへの擁護のコメントに一致している。「フェミニズムとは女性が自由な選択をできること。セクシーだろうがそれも一人の女性の選択である」と。
Haute Chocolate
つまり、フェミニストらの意見の不一致とは、世代間におけるフェミニズムへの考え方のズレ、これだけなのだと思う。「フェミニストなんだから下乳出すな」。それって、結局〇〇な女性はこうあるべき、と女性自ら女性のイメージを狭めているのではないか、と「自分らしさ」を大前提として考えるミレニアル世代には特に、ジュリアのコメントは不自然な意見であったわけだ。
しかしながら、女性の社会の進出のために女性はこうすべき、と女性としてのアピールを抑えて闘ってきたフェミストたちの存在は確かにあり、当時の女性にはそれが正義だったわけで、その考えを頭から否定することはもちろんできない。とはいえ、ミレニアル世代の筆者としては、やはり「女性は自分の像を自分で選択して良い」という意見がすっと腑に落ちる。90年代以降のフェミニズムに諸説が乱立しているのも「女性とは」という像が、もはやひとくくりにはできないものになっているからともいえる。
運動や思想は時代とともに変容していくもの。その時代にもっとも適した形で進んでいくのだとしたら…いわゆるサードウェーブ・フェミニズムがこの時代にはあっているのだろうと思う。
ところで、ここでは触れなかったがファーストウェーブ期のフェミニズムもおもしろい。実は、当時の絵画作品を見ると、その時代の先見的な芸術家たちによって、「意外な女性像」というのが作品に表現されている。あのパブロ・ピカソもその表現者の一人だ。
アート界における、フェミニズムのパイオニアたちの作品に秘められた女性像を探索してみて欲しい。▶︎記事、「あのピカソも。“女はオブジェ”をひと蹴りしたアート界「フェミニズム」のパイオニアたち。100年前の絵画に見つける、秘められた女性像」へ。
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Text by Sako Hirano
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine