飛行機が忽然と姿を消す世界七不思議のバミューダトライアングルではないが、かなりの謎に包まれた5ブロックほどの三角地帯がニューヨークにある。タクシーでさえも迷いこみ、かつてマフィアが死体を埋めにやってくることもあった。ニューヨーカーに知っているか尋ねても、みんな首を横にふる。まるで都市伝説、しかしれっきとした実在の地区「The Hole(ザ・ホール)」。
©Allen Agostino
メガポリスから見放された地帯の住人
世界一発展したタイムズスクエアから地下鉄で50分揺られると、“ニューヨークいち荒廃した”The Hole(ザ・ホール)に着くという噂だ。道路は舗装されておらず、空き家・空き地が目立ち、壊れかけのフェンスが視界に突き刺さる。どこのスラムか、どこのゴーストタウンかと見間違うが、住所を見れば何度目をこすっても「Brooklyn(ブルックリン)」だ。
それは、ニューヨークでも未だに行ってはいけないと釘を刺される犯罪多発地区イーストニューヨーク内、ブルックリンとクイーンズの境にある。周辺はお店や住宅でそれなりに拓けているが、なぜかそのトライアングルだけが荒れ果てている。通り一本離れたダイナーのウェイトレスでさえも「ザ・ホール? それどこよ?」
ザ・ホールの最大の不運は、下水設備が整っていないこと。海抜9メートル下に位置しているため、下水道が通らず、汚水処理タンクや汚水溜めを利用。春から夏にかけて汚水があふれ、通りは水浸しになる有り様だ。それでも30人ほどが住みついている。
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「そのトレーラーハウスを見たとき、これはストーリーになる、と予感がしたんだ」と話すのは、フォトジャーナリストのアレン・アゴスティーノ(Allen Agostino)。1年半の間、週に3日はザ・ホールに通い、そこの住民家族と仲間をドキュメント。彼らのトレーラーハウスの床で寝ることになった。
深夜12時の1ドルマック、ベッド下にはショットガン
「ザ・ホールにはじめて足を踏み入れた日、誰かの家をノックする勇気がなくてぶらぶらと歩いていた。そうしたら憎まれ口を叩いてきた夫婦に出会ったんだ」。売り言葉に買い言葉、しかし「なぜか打ち解けた」写真家はその夫婦を被写体にすることにした。
夫はプエルトリコ系移民の雇われ建設労働者、バム。妻は白タク運転手のシンディで、彼らの高校生の息子が、ザ・ホールの一番若い住民だ。彼らは、ご近所の裏庭に止めてあるトレーラーハウスで寝起きしていた。。“パーソナルパパラッチ”と冗談で言われるまでに行動をともにし、「スーパーに行くにも一緒についてまわったんだ」。食卓を囲み枕を並べ、生活に溶け込んだ写真家は「カメラを向けられることに寛容だった」ザ・ホールの住民たちを撮った。
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「ある緊迫した晩があった。バムには過去にいざこざのあったご近所がいて。その闘争が再熱して一触即発、彼は銃弾を詰め込んだショットガンをベッド下に用意して眠りについたんだよ」。そのときばかりは、アレンも「思わずなにか盾になるものを見つけなければ」とミニ冷蔵庫の隣に床を敷き、不安な夜を過ごした。
トレーラーハウスには電気が通っていない。ザ・ホールにあっても電気がある家の地下室に、バムたちは忍び込みこっそり盗んで引いてきた。歯医者に行くお金もないため息子の痛む歯をどうしたものかと懐中電灯で覗く。その日暮らしで、唯一の収入源であるタクシーが穴ぼこ道に嵌まってしまったらお終い。フードスタンプ*に頼り、深夜12時の1ドルマックが彼らの夕食だ。
*低所得者に向けた食料費補助制度の受給。無料で食料と交換できるクーポン
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「最後にマンハッタンに行ったのは10年前」
「汚水の洪水ですら、彼らは慣れたもの。都市から見放された孤立感も、むしろフリーダムに変換しているようだった。警察もバキュームカーも滅多に介入しない場所だったからね」
マンハッタンの中心街まで片道1時間以内で行かれるのに、仕事も遊びもザ・ホールとその周辺で済ます。「確か、バムたちが最後にマンハッタンに行ったのは10年前だと言っていた」。都市カルチャーに対する憧れはなく、マンハッタンの隣に住んでいることに「無頓着のようだった」。
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ザ・ホールの、近所の人たちを集めてよくバーベキューをするホゼ。通りでガラクタを集めてくるのが趣味で、彼の裏庭には無造作に“ゴミ”が投げこまれる。闘鶏のためのオンドリを育てるザ・ホールのファーマーでもある。バムを含め、ザ・ホールの住人のほとんどが、犯罪に手を染めた暗い過去を背負っている。社会の片隅で、貧困ラインを綱渡りしながら生きてきた者たちだ。
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ザ・ホールでの娯楽といったら、ボッデガ(デリ)の地下で違法闘鶏。夏の火曜の夜は、駐車場でのバレーボールにバーベキュー、カラオケ大会。
そこには決まってナットクラッカー(ニューヨークのビーチなどで違法販売されるフルーツジュースをベースにしたアルコール)の売り子がやって来る。
「ザ・ホールは、消えるかもしれない」
ニューヨーク市議会は、昨年、ザ・ホールのあるイーストニューヨーク再区分・再開発プランを可決した。これには、手頃な価格の住宅建設なども含まれているが、ジェントリフィケーション*だと危惧する声もある。さらに同地、“2017年ホットなスポット”とも呼ばれ、見事若い白人層が流れ込んできたブシュウィックと並び、新興地帯として栄える日も現実的な話だ。
*低所得者層の居住地域を再開発や文化的活動などによって活性化することで、富裕層などが流入し、結果地価が高騰。小さなビジネスは潰れ、それまでそこに暮らしていた人々が追い出されてしまうこと。
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アレンがはじめて訪れた2013年から、ザ・ホールには土地の偵察に訪れるジューイッシュの姿があったという(ニューヨークのユダヤ系の多くは土地事業に携わっている)。昨年夏に戻った際には、近くにショッピングモールができていた。「家賃が異常に安いから」と留まるザ・ホールの住民も、ジェントリフィケーションの煽りを受け、去るほかない日がくるかもしれない。「もし再開発が進んだら、ザ・ホールは静かに消えていくだろう」
しかしだ。このザ・ホールの開発話は以前から浮上するものの、先述したこの地最大の不運「下水設備がない」ことがネックになっている。下水設備を整えるためには、地盤自体を引き上げする億単位の大規模プロジェクトとなるのだ。押し迫るジェントリフィケーションの“防波堤”が悲運の地理である、とは、なんともいえない皮肉である。
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Allen Agostino/The Hole
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Photos by Allen Agostino
Text by Risa Akita
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine