5万人が家を失った日。チェルノブイリよりも近かったプリピャチ、原発5キロ圏内の故郷
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プリピャチという街。それ自体は聞き馴染みのない言葉かもしれないが、「チェルノブイリ原発」に隣接する場所、といえばピンとくるだろうか。旧ソ連、チェルノブイリ近郊のプリピャチ市、チェルノブイリ原発所の4号炉が爆発した1986年4月26日未明、人口5万人が突然家と故郷を失った。

「あの日はわたしの父親も、原発所で働いていました」。当時、アリーナ・ルデャ(Alina Rudya)は1歳。スライドのような瞬間的なイメージすら思い浮かばないほどにその暮らしの記憶はないが、「家族が繰り返し語っていたプリピャチをよく知っている」という。2016年、原発事故からの30年を一つの節目として、写真集『Prypyat mon Amour(プリピャチ・モナムール、愛しきプリピャチの街)』を発表。

 これまで、多くのフォトグラファーが近代における大惨劇・チェルノブイリ原発事故にまつわるテーマにいどんできたが、アリーナは少し違ったアプローチをした。一冊にまとめたのは、彼女と、そして原発事故直前まで普通に暮らしていた人々を被写体に、彼らとかつての生活の場を訪れ、各々の思い出の場所でポートレイトを撮る、というものだった。

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『Prypyat mon Amour』より。

明るい未来を描いた開発都市、平均年齢は26歳

  
 当時、のどかに暮らしていた街の5万人の平均年齢は、26歳と若い。プリピャチは原発所のための政府による計画都市で、病院、学校や遊園地などあらゆる施設が新たに作られ、卒業したばかりの若者や若い家族らが招かれ入居した。ほとんどの住人は原発所で働く者とその家族で、原発が2号機、3号機と増えるのに比例して人口も増えた。いってしまえば原発とともに成長した街だった。

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有名なプリピャチの観覧車。『Prypyat mon Amour』より。

 プリピャチという地名はそばを流れるプリピャチ川に由来し、その対岸にチェルノブイリ市がある。原発所はそのチェルノブイリにちなんでいるが、プリピャチの方が近い。たったの5キロメートル圏内だ(チェルノブイリは原発所から南東に約16キロメートル)。

「当時、母は23歳、父は28歳。わたしが生まれたばかり。わたしの親をふくめて、誰もがこれから、と生活に希望を持ち、夢を描いたときでした」。
 5万人もの住人は、そのほとんどが2日以内に避難させられたという(ただし、事故が公に発表されたのは爆発から36時間後のことだった)。

30年ぶりに故郷へ帰った人々が語ること

 アリーナがその後、はじめて故郷を訪れたのは2011年、26歳のとき。ポルトガルの新聞がプリピャチを題材にした記事を扱っており、同行したのだという。そこで、「両親の話していたプリピャチの日々を、いまはない風景に重ねてみた。父親を失くしたことも影響して、父親と母親にとってのプリピャチとはなんだったのか、そして、あの頃の人々にとってプリピャチとはなんだったのかを知りたくなったんです」。
 のちの『Prypyat mon Amour』となるプロジェクトをすぐに開始。フェイスブックでともにプリピャチに行く人を募り、彼らの思い出の場所でポートレイトを撮った。かつてのアパートでは自分自身のセルフポートレイトも撮った。
 ずっと「危ない」とプリピャチに行くことに反対していた母親も、最後は「来てくれました」。その写真は表紙を飾った。
 
 アリーナが驚きとともに直面したのは、彼らが事故当時の惨事についての言及よりも「いかにあの街が美しい場所だったのか、どれだけ素晴らしい街で、自分たちが愛する故郷だったか」を話していたこと。「川があって、カヤックができて、春は緑に囲まれて。プリピャチは本当に美しいところでした」。

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『Prypyat mon Amour』より。

 チェルノブイリ原発所、そしてその周辺もこの30年でずいぶん変わった。いまでは、年間1万5000人以上が原発所を見学しに観光にくるという。
 ただし、「チェルノブイリの出来事は、今日に続いている」と、アリーナはいう。「わたしはキエフで育った。友人にも、わたしのようにプリピャチから避難してきた人が多くいた」。差別もあった。そして、そのうちの多くはその数年後、若くして家族や親戚を失っているという。アリーナの父親も11年前に亡くなった。チェルノブイリでの事故処理作業が、のちにたたったのだという。まだ47歳だった。

※原発所30キロメートルいないは立ち入り禁止(検問あり)だが、前もって申請しておけば入ることができる。ただし、その区域内では建物へ触れることや腰を下ろすことなど、接触は禁止されている。
※プリピャチは「ゴーストタウン」として世界中から原発見学ツアーの観光客が訪れる。参加者は事前に登録し、自己責任でツアーに参加する旨を念書にする。

「あそこにソファがあってね」。壊れた建物の中で懐かしそうに話した女性。それから、「あのカフェテリアで結婚したの。友だちがたくさんきてくれて、飲んで踊って、みんなでたくさんキスをした」。ポートレイト撮影での忘れられない一コマだ。

 色褪せてあらゆるところが剥げ落ち、かつての幸せだった面影などどこにもないのに、故郷の美しかった姿を話すのが印象的だった、という。鮮明な温度を持って、確かにその人たちの心の内に、プリピャチが存在しているのを見た。アリーナ自身もそうで「すべての出来事は、チェルノブイリ原発事故でプリピャチという故郷を失ったことからはじまっている」。父を失くしたこと、父を失くしたことで故郷を撮りたいと思ったこと。人生は長く続かないから世界を旅しようと思ったこと(実際に、アリーナはトラベル・フォトグラファーとしても活躍している)。

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『Prypyat mon Amour』より。

 悲惨な出来事が、それを覚えている人がいる間は「まだ続いている」といわれるように、街もかつての記憶を持っている人がいる間は、大切な場所として存在している。
 これまで、チェルノブイリ原発事故跡地を撮った多くが、その街をabandoned(見捨てられた)と表したが、プリピャチが、本当の意味で見捨てられた街になるのは、失われてもなおノスタルジアを感じ、記憶をたどる人々がいなくなったときだろう。
 近年、プリピャチを訪れる観光客は増えている。かつての街の姿を知る人間よりも、これからは、ぼろぼろになったその姿を知る人の方が、経年と連れだって多くなっていく。誰かの新しい故郷になれる日は来るのだろうか。住民を帰還させる予定はなく、また、放射能が生活可能なレベルに下がるまでの現実的な見込み年数の公表は、いまだされていない。

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『Prypyat mon Amour』より。

Alina Rudya@alina_rudya
Interview with Alina Rudya
All images via Alina Rudya

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Text by Sako Hirano
Edit: HEAPS Magazine

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