去る6月20日~28日。東京メトロ表参道駅のコンコースに、大人から子どもまでの男女28人のポートレイト写真が飾られた。見た目は普通の外国人。
彼らは、祖国を追われ日本で暮らす難民たちだった。
難民支援協会と共同企画で写真展を開催したフォトグラファーの宮本直孝(なおたか)が語る、開催の目的と写真展を通じて見えてきた難民のいまとは?
難民とは「紛争や人権侵害などから祖国を追われざるを得ない人」
日本とは遠い存在であるように思われがちだが、1970年以降、1万人以上の難民を受け入れ、ここ数年はアフリカや中東などから年間数千人が日本に逃れてきている。シリア、ミャンマー、アフガニスタン、エチオピアなど、実に様々な理由で様々な国や地域からの難民が日本で暮らしていることに驚かされる。
そんな彼らへの注目度はというと、恐ろしいほどに低い。まるで存在していないかのごとく扱われているし、少なからずあるイメージはかなりネガティブなものだ。しかし、大切なのは、それは真実の1片であってすべてではないということ。
彼らは「難民」という言葉に望まずして押し込まれたが、多様なバックグラウンドと個性を持つ個人だ。
宮本はイタリアでベネトンのクリエイティブディレクター、オリビエーロ・トスカーニに師事し、帰国後は広告写真やモデルのポートレイトを中心に撮影してきたフォトグラファーだ。今回、彼と難民支援協会がタッグを組み生み出したテーマは、「一人ひとりの個性を切り取って伝えること」だった。撮影という、ある種特殊な方法で難民と対峙した宮本は、彼らのことをどう感じたのだろうか。
ー広告写真やモデルなどを中心に撮っていた宮本さんが、難民に興味を持った理由はなんですか?
宮本(以下M):以前、パラリンピックの選手を撮影し、同じ表参道のコンコースで写真展をしたことがあって、次のテーマを考えていたときに思いついたのが難民だったんです。特に難民を撮って社会を変えたいというのではなく、被写体として目をつけたのが彼らでした。
ー初めて難民の方と会ったのはいつでしょうか。
M:難民の人を雇ってネイルサロンをしている人からの紹介。日本に22年住んでいる中年の女性だった。ミャンマー人で、目下の悩みは子どもの教育っていう普通の日本人のような感じ。紹介してくれた人も「どこにでもいるおばちゃんだよ」って。撮影させてもらったのですが、辛い過去ははるか昔の話。それを引き出せないし、絵にならない。
ー当たり前の話ですが、見た目は普通の人が多いんですよね。メディアの特性上スキャンダルなことばかりが報道されていますが。写真展で伝えようとしたことは何ですか? みんなスタイリッシュな格好で写っているのが印象的でした。
M:普段通りで来てください、と伝えてもお洒落してくるんです。床屋に行ったり、すごく綺麗な服を着てきたり。国民性の問題でもなく、写真をとられるならかっこうよく撮られたい、という。
ー僕が以前取材した難民の人も、事前にフランクな撮影と伝えていたけど、スーツで来た。まだ日本文化に慣れていないからどんな服を着たらよいかわからないのか、ちゃんとした人間だとわかってほしいからなのか。
スーツでは絵にならないなあと思ってしまいましたが、それが実は彼らの状況や心情を表している気がして。リアリティーがあるなと思いました。
M:当初は難民の悲惨さを撮ろうと思っていたんですけど、最終的に、難民をできる限り魅力的にかっこよく撮ることに決めました。
ー彼らはカメラで撮影されることに慣れていないですよね。表情を出させるために工夫したことはなんですか?
M:モデルを撮影するとき、相手が空っぽの状態になって素の状態になるまで撮り続けることがあります。そういった写真を求められることはほとんどないので普通はしません、あくまでもそこまでやった方がいいと思ったときだけ。辛い経験をしている人は、空っぽというより集中力が高まりやすく、その状態にたどり着きやすい。
たとえば、カメラを向けると何も考えずに怒りのような感情や表情が自然とでる。だから、目指した地点がモデルやタレントの時とは違うかも。無我でなくて我、ですかね。
アフガニスタンから来た人はすぐに言葉ではない感情が出ました。怒りというより、もっと前向きな表情です。小さい頃、おじさん3人を目の前で殺されて。9歳のときに、外国に逃げた。普通の穏やかな人でした。
アフガニスタンの首都カブール生まれ。
3歳の頃、タリバンに家を追われ、何も持ち出すことができず着の身着のままで逃げたという。
9歳のときアフガニスタンを離れ、パキスタンに逃げたが安全な場所を探すことに苦労をした。
2009年に来日、大黒柱である父が仕事を探すのは困難を極めた。
現在は、奨学金を得て大学に通う。
ー撮影されるというのは、自分と向き合う作業でもある。隠している感情が出ちゃうんですかね。
M:そうですね。何かあればでてくる。ミャンマーで大学の先生だった男性も早かったです。その意味で、印象深かったのはこの2人とロヒンギャの人。
ミャンマーで暮らすイスラム教徒ロヒンギャ族出身。
宗教の違いを理由にレイプ、殺害、村の焼き討ちなど筆舌しがたい迫害を受けてきた。
そんな現状を変えるには民主化しかないと学生時代にヤンゴンで行われたデモに参加したことがきっかけで、
ミャンマー政府から追われるようになる。
身の危険を感じ、1998年に来日。
11年間働いて貯めたお金を資金に、2009年、埼玉県川越市でリサイクル会社を興す。
大学で地理学を教えていた1988年、軍事政権に対抗する民主化運動に参加。
仲間が皆逮捕され、身の危険を感じて出国する。現在は高田馬場でレストランを経営。
家族は妻と日本で生まれた娘、息子。
東日本大震災の時は仲間を集め、東北で炊き出しを行った。
難民への反応は薄かった
ー難民の方々は撮影中、緊張などは?
M: みんな全然しなかった。緊張というのは、自分をよく見せたいから。でも、みんなよく見せようとは思っていなかったです。置かれた状況は様々だけれど、共通するのは堂々としたところ。
ー写真展への世間からの反応はどんなものでしたか?
M:それが、50人に一人くらい写真をちらっとみる程度。立ち止まってみる人は15分に一人くらい。以前パラリンピックの競技者の展示をしたのですが、そっちの方が反応がよかったです。難民については、みんなとにかくわからない。なんだかわからないんだと思います。
ー日本人の難民への関心の薄さがそこに現れている気がします。
M:そうですね。友人に「難民を撮影する」と言っても、そこから話が広がらない。多分、何を話してよいかわからないんだと思います。わからないから、みんな何も言わない。そもそも、日本人はよいことも悪いことも言わない人種だと思いますし。
展示について、ネットに悪口を書かれていないか確認したんですよ。でも、ないんです。褒め言葉があっただけ。文句がない。がっかりしました。
ーあ、わかります。作品によってですが、非難する声があがってほしいものですよね。写真で議論が起きてほしかった?
M:そうですね。それは見ていてくれてるってことだから。
時にはホームレスになってしまう難民もいる
難民支援協会によると、今回の展示会の撮影に協力してくれる難民を見つけるのは難しかったという。難民支援協会の事務所には、毎日、日本に到着したばかりの人たちが助けを求めにやって来る。ほとんどの人が来日直後、日本語がわからずどう助けを求めたらいいかわからない、頼る知り合いもいないなど、今日明日を生きていくことの困難に直面する。時には、持ち金が尽きてホームレスになってしまう人もいるという。
「難民」として認められるには、難民申請をおこなう必要があるが、そもそもその制度を知らない、申請書類の書き方が分からない人もいる。
さらに、審査の結果が出るには、平均3年ほどかかる上、99パーセントくらいは通らない。その間は、法的にも生活面でも不安定で先が見えない状況に置かれるので、そういう人には協力を依頼することは難しい。
「今回は、難民認定を得た人やその家族など、すでに生活が一定程度安定している人を中心にお願いしました。中には、『協力はしたいけど、日本の難民という言葉の印象が悪い』という理由で断った人もいました」
今回のポートレイトの被写体たちは、日本の文化にある程度なじみ、自活している人たちだ。難民という記号でくくられた人たちの中にも、こういう人たちが少なからずいるということが知れただけでも、難民への偏ったイメージを変えることに繋がるだろうと思う。
そして、彼らだけではなくほとんどの難民は、私たちと同じように家や仕事があり、大切な人との日常があったどこにでもいる生活者だったということを忘れたくない。難民は、私たちと同じ人間であるという部分と、想像を絶する困難を乗り越えてきたという私たちとは「違う」という部分、その両面を持っているのだ。
難民はここ(日本)にいます。
Portraits of Refugees in Japan
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Photos Via Naotaka Miyamoto
Text by Daizo Okauchi