シリア、ヨーロッパを巡る難民問題が、世界中で注目されている。
しかし、いまもミャンマーで続いている「ミャンマー政府からの少数民族への弾圧、レイプ、強制労働などの実情」は、比べてメディアの網になかなか引っかからない。
そこから逃げてきた罪なき難民が、日本で静かに暮らしていることも。
彼らは日本で、何を思い、どんな生活を送っているのだろう?
早稲田のサイゼリアで、僕は難民たちの壮絶な話を聞くことになった。
リトルヤンゴンでTokyo難民を探せ
Photo by jun650
まだ寒さが残る春先、僕は、ミャンマー人が多いことから「リトルヤンゴン」と呼ばれる猥雑とした街、高田馬場を歩いていた。
軍による独裁政権が続いてきたミャンマーで政権交代が実現し、民主化と平和への道を歩みはじめたかのように見えるミャンマーだが、政府と少数民族との関係はまだまだ不安定と聞く。その中でも特に迫害を受けている少数民族「カチン族」の難民女性が、難民支援をしながら、高田馬場にてレストランを経営しているという情報を得たのだ。
カチン族は、ミャンマー北部のカチン州に住む民族。いまもカチン軍とミャンマー軍は戦争中で、命の危険にさらされた罪なきカチン人が、日本に救いを求めにやってきているのだそう。ふと、僕は彼らの話を聞きたくなった。
少々都市伝説めいた情報を信じ、やみくもにアジアン料理店を覗いた数件目、ついにその女性を見つけた。長い黒髪に、強烈な意思と寂しさが宿る目。それが、マリップさんだった。
いまはレストランの経営から手をひいているが、この日偶然店にたちよったのだという。「あなたが支援している難民を紹介してほしい」。突然声をかけた僕を、驚きと少しの猜疑心を秘めた表情でじっと見つめたあと、少しだけ表情を和らげて「いいですよ」と快諾してくれた。
マリップさん。
女子高生グループ、大学生カップル、そして僕と3人の難民
後日、再び高田馬場へ。そこから、歩いてむかった早稲田にあるサイゼリヤで、3人の難民に会うことになっていた。
先にマリップさんと落合い、カチン族の現状を聞く。
僕たちの右隣の席には女子高生のグループがにぎやかに座り、左には大学生のカップルが仲良くパフェを食べている。いつもの昼下がりの平和なファミレス。そこで聞いた彼女の話は、強烈なものだった。
Photo by Keiichi Yasu
「カチン族はもしかしたら絶滅させられるかもしれません。それくらい厳しい状況です。ミャンマー軍が、カチン人の軍人だけではなく、農民にも攻撃するようになった。無差別に撃つ。それから国外に逃げる難民が急激に増えた。全部で10万人を超えているんじゃないかな」
ミャンマーで何が起こっているかを簡単に説明すると、ミャンマーでカチン族への弾圧や不平等な政治がはじまり、戦争に発展したのは1960年代。
その後、1994年に一度停戦したが、それからミャンマー政府や軍がカチン州に侵入し、豊富にある翡翠やレアメタルの搾取、レイプや強制労働も横行した。絶望的な状況にアヘン中毒者が急激に増加。そのどうしようもない現実は、2011年の開戦に繋がる。
「カチン州へ空爆もされました。同じ国に住んでいる民族に、空爆するなんてありえないでしょう?私たちは、ミャンマーから独立したいのではなく平等な権利がほしいだけ。でも、彼らは私たちが邪魔なの。カチン州にある資源を手に入れたいの」
徐々に停戦合意へ話し合いがもたれているとも聞くが、カチン族の危機は続いているようだ。
しばらくすると、一人目の難民が現れた。
難民A「地雷原を歩かされそうになった青年」
予想とはまったく違う風貌の青年だった。黒ぶちの眼鏡の奥の細く優しい目。なつっこい笑顔。命を狙われ、修羅場を経験したようにはとても見えない。柔和な表情のせいか、ちょっとしたゆるさの漂う雰囲気。言ってしまえば平和ぼけした日本人の若者を連想させる。しかし、彼の口から発せられた言葉はそのイメージから乖離(かいり)したものだった。
難民A。
「拷問されて、地雷原を歩かされそうになったから、日本に逃げてきました」
その雰囲気から、正直本当かよ?と思ったが、話はリアリティーを帯びている。
彼は32歳のカチン人。数年前にミャンマー軍の兵士によって連行され、3日間監禁、拷問されたのだという。法をおかすような行為は覚えがない。いわれのない献金を要求されたのを、断っただけ。
その後、山の中にある小屋に連れて行かれた。「ポーターとしてミャンマー軍と一緒に、山の中にいるカチン軍のところまで行かされる予定だった。ポーターの役目は荷物を持つことと、ミャンマーの兵士を先導すること。通り道に地雷原があるので、カチン人を先に歩かせるんです。それで安全な道を確認してミャンマー政府軍がついてくる。実験台みたい。もう死ぬかもな、と思っていました」
そこは山の中だったが、どこかで見覚えがあった。彼のおじさんが住んでいた村の近く。以前ここもミャンマー軍に攻撃され、おじさんが銃弾で撃たれた亡くなったという辛い思い出が、記憶に強烈に刻まれていた。
「小さい頃、おじさんに会いにきて遊んだこともあるから、抜け道も知っていた。山を抜けると川があって、どこが浅いかとかも覚えていた。夜中に、オシッコに行くといって逃げて、近くの村に住んでいる親戚に助けてもらいました」
わずかな運と記憶が可能にした命がけの逃亡。そのまま故郷まで急いで戻り、少しの荷物と家族の写真とパスポートをリュックにいれ、数日身お潜めたあと日本行きのフライトに乗った。2014年のことだった。
「いまは戻れない。帰ったら殺される。カチン人の若者の7割は死んだ。戦闘やアヘン中毒で。絶望しかないから、ドラッグに頼るんです」
彼は、いま友人3人と部屋をシェアし、焼き鳥屋で働いている。殺される心配がないし、楽しいと目を輝かせる。
「バイト先の同僚もみんな日本人で、優しくしてくれる。日本のことは大好き。今は難民申請の書類を作って結果待ちです。どうなるかわからないのが不安だけど」
難民申請が受理されて、条約難民に認定されると働く権利と1〜3年の在留資格、福祉支援や日本語教育、職業の斡旋などを受ける権利が得られる。申請審査期間は平均して3年。その間、日本に滞在することはでき、申請後6ヶ月すると縛りはあるがアルバイトなどの仕事にはつくことができるのだという。だが、申請中は行政サービスはほとんど受けられない。病気になっても、社会保険が適用されないことが多い。
そんな綱渡りのような状態で、彼には夢ができた。「いつかミャンマーが安全になったらミャンマーで焼き鳥屋を開きたい。ミャンマーに住んでいた時は、夢をもてなかったけど」人懐っこい笑顔で彼はそういう。その表情は、普通の若者像とあまりに一致していた。
青年と話を終える頃、スーツをきた男性がテーブルに向かってきた。