ジャズの街、ニューヨークには「伝説の」と言われるジャズクラブが大小無数に存在する。そして、それらのどの店でも客席の最前列を陣取る「名物客」がいる。Jonathan Glass(ジョナサン・グラス)、43歳。ボタンシャツをズボンにタックインした姿は、一見、よくいる普通のジャズ愛好家。だが、演奏がはじまると、スケッチブックを膝の上に広げ、ステージ上のプレイヤーたちを描き出す。
店のオーナーや、常連たちはこういう。
「ニューヨークで彼ほど、ジャズクラブに足繁く通い、ミュージシャンを描いてきた人はいないんじゃないかな」
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いつも最前列席にいる、ジャズの音色を描く男
メンバーがステージに揃った頃、この日もジョナサンは、最前列席でスケッチブックを広げていた。右手にペン、左手にはインクボトルと、4本の”予備”ペンを握りしめ、ステージをみつめる。
彼のスケッチはいつも「音楽」と共にはじまる。そんな彼には「こだわりがある」。
1、演奏中に描くこと。
2、演奏後、作品を描いたミュージシャンに見せ、サインをもらうこと。
3、後日、プレイヤーに作品のコピーをにあげること。
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Sonny Rollins(ソニー・ロリンズ)、Max Roach (マックス・ローチ)、Jackie McLean(ジャッキー・マクリーン)など、ジャズ好きなら思わず「おお!」と声に出してしまうような名プレイヤーも描いてきた。だが、この日のような、若くてまだ無名のプレイヤーを描くのも「どんなプレーをするのか未知数だけにワクワクする」という。「(描けるかどうかわからないから)自分にとって”新たな挑戦”という感じ」。
音楽がアップテンポになると、ペンを握った彼の右手も忙しくなる。ただ目の前のステージを写生しているのではなく「聴こえる音楽も描いているから」だ。
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演奏が終わる頃には、ジョナサンも使い終わったペンにキャップを被せ、すっかり飲むのを忘れていたビールを一気に喉に流し込む。一息つくと、まだインクが乾ききっていないスケッチブックを抱えて、プレイヤーたちに駆け寄る。一人ひとりに「とてもいい演奏だった」と伝え、描き終えたばかりのスケッチ見せながら、妙にかしこまりながらこう尋ねる。「もしよかったら、ここに、あなたのサインをもらえないでしょうか」
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週7日勤務で、週4日のジャズクラブ通い。
「週に3、4日はジャズクラブに通う」という生粋のジャズ好きは、無類の働き者でもある。
平日5日は、毎朝5時半に起床。午前6時45分から午後3時まで、マンハッタンのオフィスビルの警備員として働き、さらに週末は、クィーンズ区にある『ザ・ノーグチ・ミュージアム』で学芸員を務める。それでも「稼いだお金はほとんど、チケット代に消えている」と笑う。一見、陽気でポジティブ。だが、ジャズを描くようになったのは、「鬱(うつ)を患ったことがきっかけ」だと明かす。
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子供の頃から絵を描くのが好きだった。10歳で「画家になる」と決意。美大に進学し、卒業後はマンハッタンに移り住んだのは90年代後半。当時は「ジャズより、ロックミュージシャンを描く仕事が多かった」という。しかし、20代後半から鬱(うつ)の症状がひどくなり、絵が描けなくなった。いろいろなセラピーを試した中、唯一、効果があったのがアートセラピー。「好きな音楽(ジャズ)を聴きながら描くことで、気持ちが落ち着いた」と振り返る。以来、スケッチブックを持ってジャズクラブへ通う生活を「10年以上続けている」と語る。中でもここ2年間は「豊作だ」と嬉しそう。「年に120から130作品のペースで、いいものが描けている」と声を弾ませる。
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そりゃ、叩かれることもある。
昨年末、ジョナサンはニューヨーク・タイムズ紙に取り上げられた。以来、「同僚の警備員たちからは、セレブ扱い」らしい。コラボレーションの話を持ちかけてくるアーティストやブランドも「急増した」とか。彼の絵を取り扱うギャラリーでは、それまで一枚1500ドルだった作品が、3000から5000ドルと約2倍以上の価格で販売されるようになった。また「通いつめて、なんど頼んでも絶対に僕を最前列に座らせてくれなかったクラブのオーナーが、急に僕を最前列に通してくれるようになったり」。「優しくしてくれる人が増えた」と頬を緩める。
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というのも、「客席で絵を描く」というジョナサンの行為は、やはり目立つ。周りと違うことをする人間を叩く人、というのはどこにでもいる。「ジャズは聴くもの。絵なんか描くな」と。
真っ白なテーブルクロスにインクをこぼし、支配人にこっぴどく怒られたり、スケッチブックを広げた途端、周りの客たちから「邪魔だ」と罵声を浴びせられたり。演奏者から「お前、どうせ才能もない自己顕示家だろ?」と蔑まれたこともあった。カーネギーホールで行われた某有名ジャズプレイヤーのコンサートでは、同じく最前列に座っていた女性に「目障りだ」とわざとらしく咳払いをされ「演奏がはじまっても、彼女は咳払いを止めないからヒヤヒヤした。だって、演奏者が気分を害して、演奏を止めたりしたら、せっかく高いチケット代を払って会場に来た何百人というお客さんからヒンシュクを買うのは僕だから…」と、“嫌われエピソード”は尽きない。
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だが、それでも自分のスタイルを続けてこれたのは、足繁く通った長い年月の中で、地元のジャズファンやプレイヤーたちと築けた「信頼関係」があるからだ。サックス奏者のLee Konitz(リー・コニッツ)やRavi Coltrane(ラビ・コルトレーン)は「今日もカッコよく描いてくれよ」などと、「ステージ上からイジってくることもある」と、ほくほく顔 。「僕は、この素晴らしい音楽の歴史に貢献したいんだ」
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あまりに律儀で、ちょっと不器用。ジョナサンを見ていると、そんな風に思う。何十回と通った馴染みの店でも「俺は常連」といった振る舞いはない。「バー(店)にお金を落とさず、演奏だけ聴いて帰るのはちょっと気がひけるから」と、毎回特に好きでもないビールも買う。そんな彼の性格を知っているからか、オーナーも「入場料? 彼からはとらないよ」。
手がインクで真っ黒だけど? 帰路に着こうとする彼に、そう話しかけてみた。「これは、いつものこと!乾いているから大丈夫。家に帰ってから洗うんだ。店のトイレを汚して、迷惑がかかったら嫌だから」と、ジョナサンはニッと口角を上げて笑顔を作り、地下鉄駅に向かって足早に去っていった。
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Images by Hayato Takahashi
Text by Chiyo Yamauchi