急速にインディー音楽が浸透するインドネシア。シーン立役者と振り返る〈インディーズ×大衆社会〉の分岐点

インドネシア・インディー音楽シーンの重要人物、モンド・ガスカロが目撃してきた〈インディーバンドと大衆社会とのつき合い方〉。
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「21世紀に入るまでは、インディーバンドが大規模なフェスに出演できたとしても、せいぜい小さなステージでの出演がいいところ。でも、いまではトリを飾るバンドも多い。近年、メジャーとインディーズの垣根はグンと低くなりましたね」

インディーズバンドと大手ブランドのタイアップに、インディーズバンドの大規模フェスのヘッドライナーに。数十年前にはなかった「インディー音楽の大衆社会への浸透」が急速に進むアジアの国がある。インドネシアだ。

大手企業とタイアップも。20年越し「インディーシーンの台頭」

 インドネシアは、1945年に独立した比較的若い国である。それに比例して若いのは、国内の〈インディー音楽シーン〉だ。政治的な理由により、ロックや国外の音楽が規制の対象になった時代を経て、90年代後半になってから、ようやく若者たちによるインディームーブメントがはじまった。

 それから20年、いま国内のインディー音楽シーンが勢いよく社会に浸透中だ。たとえば、電子音楽系インディーバンド・HMGNCの楽曲が現地ユニクロのテレビコマーシャルに起用されたり、インディーロックバンドやインディーシンガーも大型音楽フェスでヘッドライナーを務めたり。さらに、大手企業がインディーズのプロジェクトをスポンサーするなど、いまや大衆社会でのインディーシーンの存在感は大きくなるばかり。

 遅咲きのインディーシーンがいかにして今日の開花までやってきたかを探るべく、国内インディーシーンの“キーパーソン”をインドネシアに訪ねた。かつて、人気インディーバンド「SORE(ソレ)」に在籍し、国内インディームーブメントにおいて重要な役割を果たした作曲家/プロデューサー、モンド・ガスカロ氏だ。2007年にリリースしたソレのファーストアルバムは、有名音楽誌ローリングストーン誌インドネシア版の「史上ベストソング150」に選出され、インディーバンドがメインストリーム勢と対等に扱われる一つのきっかけを作った(モンド氏脱退後のいまも人気のバンドだ)。

現在も自身のレーベル運営に、海外アーティストのプロデュースなど精力的におこなっているモンド氏。インドネシアのインディーシーンをメインストリームへ持ち込んだ立役者と、インディームーブメント創生期から、大衆社会に少しずつ溶け込むシーンの現在までをたどってみる。


モンド・ガスカロ氏。
Photo by Rendha Rais

HEAPS(以下、H):現在のインドネシアでは、インディーミュージシャンが企業からスポンサーを受けていたり、主要なライブイベントでもインディーズがヘッドライナーを飾ることが当たり前になっているそうですね。20年前(2000年代)までは、いわゆる「若者文化としてのインディーシーン」が存在しなかったと聞いています。まずは、盛りあがりを見せる前のインディーズの動きについて、教えてくれますか。

モンド・ガスカロ(以下、M):正確には、2000年以前にもインディーレーベル自体は存在しました。ただ、70年代以降に欧米で起こったような“大規模なインディームーブメント”は、90年代後半までありませんでした。欧米と比べ、なかなかインディーシーンがムーブメントにまでいたらなかった背景には、80年代中盤に海賊版の流通が禁止されたことがあります。90年代中盤にいたるまで、ニューウェイヴなど国外の最先端の音楽が聴けない状態が続く。そこには、日本のシティポップも含まれていましたよ。

H:文化に敏感な若者たちにとって、もどかしい状況だったでしょうね。モンドさん自身もそのような環境で、青春時代を? また「90年代中盤にいたるまで」とは?

M:私は幸い母親が日本人であったこと、そして10代を米国で過ごしたこともあり、80、90年代に国外の音楽をたくさん聴ける環境にいました。

90年代中盤ごろ、スキンヘッドの双子が南ジャカルタのバスターミナルの地下に、輸入カセットテープや中古レコードを売る「ツインズ」という店をはじめました。国外の音楽に飢えたジャカルタの若者は、いままでの空白を埋めるように、新しい音楽をむさぼるようにして輸入カセットを漁るようになった。インドネシアには、88年までテレビ局が一つしかなかったのですが、この頃にはMTVも視聴できるようになり、番組内で流されていたイギリスのブリットポップ*が若者のなかでは盛り上がったんです。

*オアシスやブラーをはじめ、90年代に人気を博したイギリス出身のインディー・バンドたちのムーブメント。

H:国外のインディーシーンに感化され、インドネシア国内でもインディームーブメントが起きたと。

M:ただ、インディーバンドの盛り上がりはそこまでもなかったんです。大規模なライブイベントがあっても、入り口付近の小さなステージでしか演奏する機会があたえられず、ギャラもでない状況で。



Image via Synchronize Fest

H:なんと。インディーズの立場はまだまだ弱かったんですね。90年代後半からムーブメントとして徐々に盛り上がっていったそうですが、きっかけはなんだったのでしょう。

M:それを語るには、まずはバンドンという学生都市での動きを説明しないといけませんね。

H:バンドンは、首都ジャカルタから鉄道で東に3、4時間ほど行ったところにある第三の都市ですよね。多くの大学がキャンパスを構える、“若者文化の象徴”のような都市だと聞いています。

M:そうなんです。学生が多いことから時間の流れがゆったりしていて、コミュニティ同士の距離も近く、人々が集って「何かをしよう!」と新しい動きが生まれやすい地域。新しいレストランがオープンすればみんなチェックするし、新しい音楽が出てきたらすぐ友だちの間で出回る環境です。

H:それが、国内インディー音楽シーン勃興のキーとなる?

M:90年代後半、バンドンのシーンはDIY精神で生まれました。多くのバンドやバンドメンバーの友だち、バンドン工科大学の学生などの若者たちが、自分たちの音楽やマーチャンダイズ、独自編集したミックステープ、ジンなどを制作しました。最初は個人編集だったジンが少しずつ大きくなり、『トローリー』や『リップル』など若者文化を牽引する本格的な雑誌になったケースもあるんですよ。

『リップル』は、「ピュア・サタデー(Pure Saturday)」というバンドによって発刊されました。また、バンドンにはアパレル系の工場がたくさんあったので、アパレルブランドとコラボするバンドやアパレル店を経営するバンドがいたりもして。バンドたちは、アパレル店の立ち上げなど音楽以外のものを抱き込み、DIYを軸に独自でデザインやPR活動などをおこなっていたんです。早い段階から、レコードレーベルやバンド、ディストロ、デザイナー、アパレルブランド、ジン制作者などがバンドンのインディーカルチャーの生態系を支えていました。のちに大きな商業的な成功を収めるモカ(Mocca)など、今日にいたるまで活躍するインディーバンドが生まれます。

H:そうやってバンドンで生まれたDIYのインディー文化が、国内のインディー音楽ブームに繋がっていった。

M:バンドン工科大出身の音楽ディレクター、デヴィッド・タリガンがジャカルタに渡り、バンドンのインディーズとジャカルタ芸術大学出身のアーティストとの繋がりを深めたんです。ジャカルタ出身のポップバンド「ザ・アップステアーズ(The Upstairs)」やロックバンド「ザ・アダムス(The Adams)」、そして私が在籍していたソレなど、現在のインディーシーンの中心バンドたちの曲が収録されたコンピレーションアルバムが制作されたり。バンドンで育まれた学生都市ならではの独自のDIY文化と、首都ジャカルタのインディーアーティストたちが繋がりあうことで、国内のインディーシーンが急速に盛りあがっていきます。



Image via Synchronize Fest

「もはや“インディーかメジャーか”なんて話じゃなくなってきています」

H:二つの都市の音楽の才能が融合し、形成されていったインディー音楽シーンですが、どのようにして大衆にも届いていったのでしょう。

M:コンピレーションアルバムからまもなくして、ある映画が商業的にも大きな成功を収めました。『ジャンジ・ジョニ』という名の映画で、制作側がインディーレーベルのプロデューサー(先述のデヴィッド)にサウンドトラックの制作を依頼したんです。結果、私が所属したソレや「ホワイト・シューズ・アンド・ザ・カップルズ・カンパニー(White Shoes and The Couples Company)」「ティカ(Tika)」「ティーネージ・デススター(Teenage Death Star)」のようなインディーアーティストの曲がフィーチャーされました。これが、インディーシーンの転換期だったといえます。

H:ヒット映画のおかけで、大衆の耳にインディーズの音楽が自然と届いたというわけですね。あとは、2007年にソレのファーストアルバムがローリングストーン・インドネシアが選ぶ「オール・タイム・ベスト150*」に選ばれたこともインディーバンドが大衆社会にも認知されるきっかけになったのかと推測します。日本でいえば山口百恵や美空ひばり、サザン、ボウイ、グレイなど有名アーティストの名が連なるなかに、ぽんとインディーバンドの名前が入っているような。これは歴史的な快挙だったと。

*インドネシア独立からいまに至るまでに発表された全音楽作品の厳選150枚。

M:確かに、コンピレーションアルバム、映画の成功ときて、「一般大衆までインディーズの音楽が届く」、ということに拍車をかけたかもしれませんね。

H:インディーシーン創生期から転換期を経て今日にいたるまで、ずっとシーンに身をおくモンドさん。10、15年前に比べて近年のシーンについてはどう捉えていますか?

M:10、15年前と比べて大きく進展していると思います。当時、ぼくたちは大きなフェスに出演しても、小さなステージでしか演奏できなかった。近年では、「バラスアラ(Barasuara)」や「スターズ・アンド・ラビット(Stars and Rabbit)」に「ダニラ(Danilla)」「ジェイソン・ランティ(Jason Ranti)」など、多くのインディーアーティストたちが、サウンド・ルナライン(Soundrenaline)等の大型音楽フェスでトリを飾っています。私も、ジャヴァ・ジャズ(Java Jazz)やミュージック・ギャラリー(Music Gallery)、ウィー・ザ・フェスト(We The Fest)など大規模フェスでヘッドラインをしたことがありますよ。
そのほかにも、インディーズ界隈の人々やコミュニティによってオーガナイズされているフェスがあります。音楽・ファッション・食関連のイベントを手がけるコレクティブが主催の野外フェス、フォーク・ミュージック・フェスト(Folk Music Fest)や、アートコミュニティが仕切る子どもにも人気の森のフェス、レックフェスト(RRRec Fest)、インディー流通会社のディメジャーズ(DeMajors)が開催する多ジャンルのアーティスト出演のシンクロナイズ・フェスト(Synchronize Fest)などですね。


シンクロナイズ・フェスト。Image via Synchronize Fest

ジャヴァ・ジャズ。Photo by Reza M Fauzi



レックフェスト。Image via RRRec Fest

H:さまざまな人々が訪れる大型フェスの重要な核をインディーズが担っていることも増えたんですね。

M:その理由として考えられるのは、ソーシャルメディアやユーチューブ、デジタル配信のおかげで大衆の音楽の聴き方、探し方が昔と比べてかなり変わったことです。

国営放送が流すメインストリームの音楽を聴いている人々には、インディーズはまだそれほど知られていないのかもしれません。ただ、若者がこれまでよりももっとインディー音楽を聴くようになったのは事実です。ここでいう若者とは、ネットのアクセスがあり、大都市や第二都市で働き暮らしている16歳から35歳くらいを指します。インディーズ音楽やライフスタイル、ファッションが彼らのアイデンティティを映し出しているのかもしれません。そういうわけで、メジャーレーベルと契約をしているようなメインストリーム・アーティストとインディーアーティストの垣根はぐんと低くなったと思います。

H:若者は、インディー、メインストリーム関係なく消費していると。

M:もはや、インディーかメジャーか、なんて話じゃなくなってきていますね。それから、以前は大きなレーベルと契約していた多くのバンドやミュージシャンが現在は独立し、自身のマネジメントや小さなレーベルを作る傾向があります。「ライサ(Raisa)」や「トゥルス(Tulus)」、「ハイファイ(HIVI!)」など、“ビッグスター”の多くが、自身のレーベルやマネジメントを独立してやってるんです。

H:確かに、そうなってくると何が“メジャー”で、何が“インディー”かわからなくなってきますね。さて、大衆社会にもインディーミュージックがどんどん浸透していると聞きますが、大衆社会とインディーズは具体的にどんな関わりがあるのでしょう。

M:大手タバコ会社のサンポルナや、コミュニティ活動に熱心なタバコ会社ジャルム、サムスン、ソニー、コンバース、ゴジェック(配車サービス会社)、トラベロカ(オンライン旅行代理店)、チケット・ドットコム(チケット予約サイト)、銀行などもアーティストたちの制作やイベントなどをサポートしています。
ダニラは、イエーガーマイスター(アルコールブランド)とタイアップしましたし、バラスアラは2年前、Aマイルド(タバコメーカー)のイベントで親善大使を務めました。別のタバコのブランドも、バンドとシンガーのコラボプロジェクトをスポンサーしていましたね。



Image via Synchronize Fest

H:大手企業といえば、最近ではインディーバンド、HMGNCの楽曲が、現地ユニクロのテレビコマーシャルに起用されたりしたそうですね。これに関してはどう考えていますか?

M:商業的ブランドがインディーシーンやアーティストたちを応援していることに関しては、いい点と悪い点があると思います。いい点としては、アーティストたちの活動が金銭的に支援されることで、もっと幅広いオーディエンスにリーチできるようになるということ。全国のオーディエンスを相手に演奏し曲を聴いてもらうことができますね。

悪い点としては、スポンサーされているという状況に甘んじて、DIYやコミュニティ精神などの初心を忘れてしまうこと。目標がブレて、不利益や停滞にも繋がってしまう。なんだかんだ言っても、企業は彼らにとってのKPI*やターゲットを設定していることは否めないわけで、企業の目標はいつもミュージシャンと同じだとは限らない。また、多くの場合、企業のKPIはソーシャルメディアのフォロワーや動きをもとに設定されている。そうすると、フォロワーを多くもつミュージシャンがサポートされてしまう。フォロワーの少ない新人アーティストたちが、この“生態系”のなかに割って入っていくのがだんだん難しくなっているのです。その昔は、口コミや小さなDIYライブ、ラジオで働いている友だちの友だちの友だち、紙媒体、テレビなどでミュージシャンの存在が広まっていったため、より強いコミュニティが築けたのですがね。そこで、別の心配事もあります。

*Key Performance Indicatorの略称で、目標に基づく業績を評価するにあたって「キー」となる指標のこと。

H:と言いますと?

M:インドネシアには、確立された音楽メディアがないことです。インドネシア版ローリングストーン誌は、昨年廃刊になりました。このような状況では、妥当性やきちんとした批評、音楽の知識がないまま「この音楽がいい・悪い」と誰もが言えます。その発言や話題がバイラルになればなるほど、あるいはアーティストのフォロワーが多ければ多いほど、社会での露出の機会が増えていく。正当性のある音楽レビューもなければ、未来のリスナーが参考として読む信ぴょう性の高い良質な音楽記事もない。
そこに、音楽にきちんとフォーカスするインディーメディア2、3媒体と結束力が強いコミュニティがあれば、バンドやアーティスト、商業的ブランド、プロモーター、リスナー、オーディエンスを取り巻くより良い生態系が作れると思っています。




Image via RRREC Fest

H:新しいインディーアーティストたちが露出する機会や、きちんとした批評を受けられるプラットフォームはインディー勃興とともに、ますます必要になるでしょう。さて、最後に。これほどまで大衆社会において大きな存在感を放つようになったインドネシアのインディーシーンですが、モンドさんがこれからのシーンに望むことは?

M:正直なところ、“サブストリーム(いわゆる商業的なメインストリームではない)”では、もうすでに成長して実績のあるシーンなので、これ以上、特別に望むことはそこまでありません。

個人的には、音楽的な繋がりを国外にもっと広げていけたらいいなと思います。幸いにも、シンガポールやマレーシアのリスナーの中には、インドネシアの音楽を聴いてくれているファンもたくさんいます。それがきっかけで私もマレーシアのシンガーソングライター「ノ・サリ(Noh Salleh)」のプロデュースをすることになりました。それから、プロダクション・デシネという日本のレーベルをきっかけにアナログレコードなどを日本で販売しているのですが、そこから日本のバンド「LAMP」の音楽を知り、昨年には私のレーベルでインドネシア版音源の発売やライブをおこないました。東南アジアにとどまらず、日本のバンドとも共作ができている。
国をまたいだこの音楽の流れが、アジアを中心に世界にもっと広げていけたらうれしいです。ここまでグローバリゼーションが進んでいるなかで、経済界だけがその恩恵を受ける必要はないですから。

Interview with Mondo Gascaro


Photo by Reza M Fauzi

《モンド・ガスカロが音楽を担当。伝統舞踊を通してLGBTQを描く映画『メモリーズ・オブ・マイ・ボディ』日本プレミア上映》

本記事で、インドネシアインディー音楽界のベテランとして、シーンの変遷や全貌を語ってくれたモンド・ガスカロ。彼が全編にわたり音楽を手がけた映画『メモリーズ・オブ・マイ・ボディ』(2018年/インドネシア)が、国際交流基金アジアセンター主催の特集上映「響きあうアジア2019<東南アジア映画の巨匠たち>」(7月3日〜10日:東京・有楽町スバル座)の上映作品として選出。来たる7月4日に日本初公開される(二回目の上映は7月7日)。

インドネシア映画界の巨匠ガリン・ヌグロホ監督がメガホンをとった同作品。主人公は、中部ジャワの伝統舞踊「レンゲル(女装した男性が踊る女形舞踊)」のダンサーだ。あまり注目されてこなかった「地域の芸能や伝統文化のなかに根づくLGBTQの伝統」を浮き彫りにし、「ひとつの身体のなかに混在する男性性と女性性を描いて」いる。

響きあうアジア2019<東南アジア映画の巨匠たち>は、国際的に活躍する東南アジアの監督たちをフィーチャーする祭典。ほかにも、フィリピンの麻薬戦争を描いた問題作『アルファ 殺しの権利』(ブリランテ・メンドーサ監督/2018年)や、現代に生きる孤独な3人を描いたシンガポールの作品『一緒にいて』(エリック・クー監督、2005年)、カンボジアの巨匠リティ・パン監督が大江健三郎の小説『飼育』を下敷きにした『飼育』(2011年)、インドネシアやタイの次世代を担う若手監督の作品も上映予定だ。上映後の監督を迎えたトークや日本と東南アジアの映画交流に関するシンポジウムも実施される。詳しくは、以下のウェブサイトから。
▶︎https://jfac.jp/culture/events/e-asia2019-masters-of-southeast-asian-cinema/

Eye Catch photo by Rendha Rais
Text by Yuki Lee
現地取材協力:サラ・ガスカロ/SHUN(MONDO by the Rooftop)
企画協力:中村 めぐみ
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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