時計職人のプライド

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「どんな古時計も直せる」と評判の男、ウォルター。ロシア語なまりの旧ソ連移民だ。冷戦時代に軍用機をつくっていたが、より良い暮らしを求め、妻子を連れて“敵対国”アメリカに渡り、ゼロから時計修理師としての生きる道を見いだした。一度は粉々に砕かれた職人のプライド。そこから「石の上にも三年」ならぬ辛抱の数十年。取りもどした魂には、熱く硬派でありながらも、独特の柔らかさが宿っていた。

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どこも直せなかった時計、「ここでなら直してもらえる」

 入り口には「Weekday 12pm Open(平日午後12時オープン)」と書いてあるが、時間通りに訪ねても、閉まっていることもしばしば。20分ほど時間を潰して戻ってくると、狭い店内で大きな身体をのっそり動かすで主の姿が確認できた。ウォルター・ディカレブだ。6畳ほどの古めかしい店内には、腕時計、掛け時計、置時計、懐中時計など、ところ狭しとアンティーク時計がひしめく。一気に3人も入ると身動きがとれなくなってしまうほどの、小さな小さな時計修理店だ。

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 恰幅のいいウォルターの手は、大きくて分厚い。時計のような細かい部品を掴むには不向きのように見えるが、そうでもないらしい。メガネの上にちょこんと付いた拡大ルーペで細部をのぞき込みながら、その手で器用に分解していく。「時計の不調は、人間みたいに中をしっかり見ないと原因がわからないんだ」。
 そんな話をしていると間もなく、この日最初の客がやってきた。修理に預けていた腕時計を取りに来たという。ウォルターが修理を終えた腕時計を差し出す。受け取った男は、動くようになった針を見るや顔をほころばせ、「パーフェクト!」と嬉しそうに何度も時計を撫でる。そんな様子をニコニコと眺めるウォルターは、作業中のストイックな様子からは一転。なんだか、“ちょっと背の高めのエビス様”にも見える。

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 そうこうしていると、また次の来客。大きな掛け時計を担いで駆け込んでくる者や、修理を終えた時計を引き取りに来る者、はたまた「いつものね!」とおやつにフルーツを届けてくれるご近所さんなど、20〜30分ごとに誰かしらがやってくる。その間、電話での問い合わせの対応もあるから、店は常に忙しい。ウェブサイトも設けないほど小さな店なのに、なぜだろう。

 聞くと、口コミで新規顧客が増えているという。「腕時計を直す店は結構あるんだが、うちみたいにアンティークの掛け時計も直せるところは少ないんだよ」。そう話すウォルターを囲むように並ぶのは、掛け時計、置時計といった修理待ちの“患者”たちだ。

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ソ連から米国へ。「甘くはなかった」現実

 生まれも育ちも旧ソ連のウォルター。「当時のソ連は良かった。教育だって最高だった」と、ソビエト社会主義共和国連邦への愛国心は今なお熱い。1960〜80年代のソ連といえば、冷戦の渦中にあり、国をあげて軍事に力を注いでいた時代。軍事機器製造に携わる父親や叔父の背中を追うように、ウォルターも大学で機械工学を専攻し、その技術を活かしてエンジニアの道を歩んできた。経験を積むにつれ高まる「職人」という自負。国が与えてくれた最高の学びの機会、そこで吸収した知識を活かし、国に恩返しをしているという実感が誇りだった。
 だが、時代は変わろうとしていた。ソ連の終焉間近になり、政治的統治から迫害を受ける恐れがあるため、80年代後半、妻と二人の息子を連れ、ソ連からイスラエルへ。そして89年にアメリカへと移住した。当時、多くの国民が国外に出たくても出れなかった中、「こうして渡ってこれたことは幸運以外のなにものでもない。今でも感謝の気持ちで一杯だ」と振り返る。

 アメリカへ渡りゼロからのスタート。同じユダヤ人仲間からのアドバイスは「work, work, and work(とにかく働け)」。それが、資本主義国を生きぬく術だと教えられた。「機械のことなら任せてくれ!」。そう言っても「英語ができないんじゃなぁ」「ソ連から来たのか?」と風当りは厳しく、移民として新天地で妻と子どもたちを養うのに、仕事を選んでいる余裕などなかった。
「最初はカーサービス会社でリムジンドライバーとして生計を立てていた」とポツリ。職人としてのプライドを押し殺していた過去を語るウォルターは伏し目がちだった。

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夢の「自分の店を持つ」まで

 石の上にも三年、継続は力なり。そんなことわざがロシア語にもあるという。それを何度も自身に言い聞かせ、謙虚にコツコツと仕事に励み、耐えた。5年後、機械の知識を活かせる仕事を知人に紹介してもらい、ついに手に入れたのが「時給5ドル(約600円)の時計会社」だった。それまで、時計の修理などやったことのなかったウォルター。

「時計か。機械にしては小さい…」と、職人としての誇りをすぐに取り戻すことはなかったが、技術職に就けることは嬉しかった。「僕は大きな機械を知っていたからね。小さいモノならできる自信があった」。「大は小を兼ねる」といわんばかりに、「機械も同じ。大が分かれば小も分かる」という、ポジティブで強気な持論こそが新しい道を切り開く原動力となった。

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「頑張っていれば、チャンスはまわってくる」

ウォルターの緻密で正確な仕事ぶりは評価され、時給は10ドル、そして15ドルと上がっていき、時計修理師としてよりよい仕事に恵まれはじめた。「知識と同じくらい忍耐力が必要」といわれる時計の修理業。それができる自身の職人気質を再確認するとともに、自信も取り戻しはじめた。そして新しい夢が生まれた。

「いつかは雇われることから卒業して、自分の店を持ちたい」。そして、チャンスはひょんなところからやって来た。「時計が直せるなら、靴も直せるよね?」と、知人に頼まれ、定期的に手伝っていた靴の修理屋。そのオーナーが、突然店をたたむという。「ゼロから開業となると資金がかさむが、ここだったら既に顧客もいるし、同じ修理業だから内装もそのまま使える。やるしかない」。こうして、「修理は僕、経理は妻」のたった二人だけの小さな時計修理屋「Walter’s Clock and Watch Repair」を開業した。

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 とはいえ、「看板を“時計修理屋”に変えただけ」。最初は、靴の修理依頼ばかりだった。それでも断ることはなかった。今では家賃が高騰し中流階級層では住むことの難しいウェストビレッジだが、「当時は名前通りの“村”のコミュニティだったからね。近所の人々のための修理屋だったんだ」。

 そのうち、「あの人は靴も時計も直せるらしいよ」と噂が広がり、客足とともに「ネックレスが壊れた、リモコンが動かない」など、予期せぬ依頼の種類も増えたと笑う。ガラスケースには時計だけでなくアンティークアクセサリーも仲良く並んでいる。
「人助けだと思ってね。直せそうなものは何でもやってあげたよ」。「work for people, work with people」。
 そんな姿勢、大きな時計修理会社にも負けない強固な信用へとつながり、今日があることは言うまでもない。「故障は、クリーニングだけで直ることもあれば、部品がさびついていたり、歯車や軸の一部が欠損してしまっていたり、はたまた寿命だったりと、すべて違う。人間みたいなもんだよ。特に古時計は同じ部品がないから、手に入らないパーツは手づくりするしかない。一つひとつ、修理はどれも難しいね」。根気のいる作業なのだ。

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 大きな商業時計の修理依頼も受けるが、 ウォルターは個人の想いの込められた置時計の修理をより好むという。『大きなのっぽの古時計』が、おじいさんの家族のうれしいことも悲しいことも何でも知っていたように、「時計はその人や、その家族と共に生きてきたもの」とウォルター。思い出も歴史も次代に残していきたい、そんな顧客の切実な想いに応えようと、時計に命を吹き込み続けてきた。「再び動きだした針を見たお客さんの笑顔が励みなる」と、勤しんできたウォルターも65歳を過ぎた。「昔みたいに長時間労働するとやっぱり身体に堪えるね」とはにかむ。
 現在、店の後継者となる職人はいない。その分、「自分がやらなかったら他にやれる人がいない。お客さんが悲しむ」と、時計修理師としての使命感もひとしおだ。ウォルターからにじみだす、職人たる謹厳実直さ。「この人にならと家宝の時計も預けられる」と喜び太鼓判を押す客が、新たな客を呼び寄せるのも大いに頷ける。

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Walter’s Antique Clock & Watch Repair
240 W 10th St.
(between Bleecker St. and Hudson St.)
TEL: 646-638-1469
< Issue 14『ニューヨークの小さな専門店』より >

Photographer: Kuo-Heng Huang
Writer: Chiyo Yamauchi

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