究極のフェミニンは、男にある。“地獄”でLGBTを支えたドラァグ・クイーン

「これが最後かも知れない」。たった一度のショーにその先の人生を賭けてでも演じてきた男たちがいる。大げさな化粧、きらびやかなドレスを身に纏い、危ういほどのピンヒールを履きこなして踊ってみせる。“彼ら”はドラァグクイーン。1970年代より、屈強の時代を越え確立されたエンターテイメントだ。そして、そのシーンを語るのに欠かせない人物が、Linda “Les” Simpson(リンダ・レス・シンプソン)。「ホモフォビア」の時代に水面下を支えた、ドラァグクイーンだ。

ドラァグクイーンという、最大の自己表現の場

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「それなら、Linda Simpson(リンダ・シンプソン)に会うといいよ。彼無くしていまのニューヨークのゲイシーンは想像できない」。LGBT特集に頭を悩ませていたときの友人の一言で、リンダという“男”の存在を知った。すぐにコンタクトを取り、リンダに会いに彼のマンションへ。呼び鈴を鳴らすと部屋の音楽が止み、ドアが開く。

「よく来たね」。太い声で、しかし女性のような柔らかい口調でそう言った。どうやら化粧の途中だったらしく、テーブルには道具が散らかっている。「少し待って」と言って、メイクアップの続きをはじめた。丁寧にアイシャドウを重ね、パフでファンデーションを整えていく。最後に、さっと潔くルージュをひいた。今夜、仕事があるのだという。

 2014年5月、リンダは「ニューヨーク・ドラァグクイーンベスト10」に選ばれた。初めて舞台に立ってから30年目のことだ、という。ドラァグクイーンとは、男性が女性に扮して女性の口調や身振りを大げさにしたいわば、「女性のパロディ」を原型に広まっていったエンターテイメントである。「口パク」と「踊りまね」が定番のパフォーマンスで、レディ・ガガ、ビヨンセ、そして根強くマドンナがいまの人気のネタらしい。この“真似”が醍醐味で、特有の面白みはここにあるともいえる。
 だから、選ばれたベスト10の中でもリンダは風変わりだ。というのも、彼はその醍醐味を「一切やらない」。「リズム感がないから口パクはずれるし、踊りの才能も無いからね」と笑う。

「その代わり」と、少しわざとらしい瞬きを一つしてから、「話すのは得意なの」。主流の醍醐味に代わり、彼特有のスタイルはシンプルに「TALKING(しゃべり)」。歌うリズムの才能は無いが、どうやらトークに置いては別のようだ。
“Sassy Classy!” 、“彼女”のステージにはそう賞賛が飛び交う。日本語でいうなら「粋」といったところか。ウィットに富み、時に自虐し、愛を込めて社会を批判する。そしてこの「TALKING」には一つの“狙い”を持ってやってきた。面白可笑しい粋なトークに「ゲイ」「トランスジェンダー」のネタを盛り込み、観客に知識を撒く。こうして、図らずとも観客は「ゲイ」について知っていく。

「『ゲイ』について知って欲しいと思った。でも、どうしたら人々が耳を傾けるか。痛烈な、悲壮なスピーチは心に響く。でも、それに興味の無い人に聞いてもらうにはどうしたらいい?面白い話の方が人は聞きたくなるでしょう?」。ユーモアに包んで、ゲイという存在を社会に優しく突きつけてきた。そして「ユーモア」で覆われた内には、彼が負ってきた傷、誇り、そして信念がある。

「人生でたった一つ、後悔してることがあるの」

 生い立ちの話をしていると、そう切り出した。数十年前、ミネソタ州に生まれた。「年は内緒」と、すぼめた唇に人差し指をあてて茶目っ気たっぷりに微笑む。さすがはドラァグクイーン、その姿が様になる。のんびりとした田舎で、父と母と三人暮らし。普通の家庭だったという。しかし、平穏な家庭で最初に感じた「違和感」はリンダが3歳のとき。「人形とか花とか、そういうものばかり欲しがった。車とかロボットには一切興味が無くて。でも、そうすると父も母も怪訝な顔をするのね。それがどうしてかわからなかった」

 そういったことが続くうちに、自分は周囲と違っていることに気づきはじめる。そして、「違和感」の正体を暴く決定的な出来事が起こる。クラスの“男子生徒”を恋愛対象として好きになっている自分に気づいたのだ。「その時、はっきりと自分がゲイなんだってわかった」。衝撃だったか、とたずねると、「まったく。衝撃というよりは、すべてが腑に落ちた。やっと、自分という人間を完全に認識できた」

 自分らしく生きる。簡単に聞こえる当たり前のことが、マイノリティにとっては犠牲を覚悟しなくてはならないことだ。ゲイとしての自覚を持ってからというもの、自身に見いだしていたフェミニン性を「アイデンティティ」とし、「それも自分」と振る舞ってきたが、「オカマ野郎」と心ない言葉で罵られる。「だからひたすら静かに過ごすようになった。普通の男を演じるという嘘よりも、内に秘めることを選んだのよ」
 かつて一度選んだ、“silence”(沈黙)。この沈黙の時間、我慢の時間が反動となって後に、ドラァグクイーンに扮しての「フェミニン性の“解放”」となったのかもしれない。

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 リンダは続けた。「実の父親と、わかり合うことなく、私たちの関係は終わってしまった」。10代も終わる頃、リンダは両親へのカミングアウトを決める。偽り続けることに耐えられなくなったからだった。「ものすごく怖かった。でも、母親は理解しようとしてくれた。父親は違った。その日から、私たちの距離がもとに戻ることはなかった。彼が死ぬまで」。拒絶と困惑。それが、父親が見せた唯一の反応だった。

 1970年代、ゲイについての認識はひどく偏ったもので、さらにミネソタ州という田舎では都市の情報など入ってこず、ゲイは「得体の知れないもの」だったという。ゲイを理解するほどの知識もないため、「ゲイ」と罵られることもない。「誤解」すら存在しないところで、理解は生まれない。父親に怒りはあったのか、と聞く。「怒りはあった。どうしてわかってくれないのかって。でも、今は自分への怒りもある。ずっと“silence”でいた自分の、たった一度の告白が拒絶されたからといって諦めてしまった。一番わかって欲しかった人だったのに」。この後悔はまだ鮮明なの、と。

恐怖と隣合わせ「命がけのパフォーマンス」

DragExplosion11 via The Drag Explosion

 リンダがニューヨークに来たのは、1980年初頭。「学生」は単なる名目で、“大学そっちのけ”でのめり込んでいったのが「ドラァグクイーン」の世界。その頃、若年層のゲイが多くいるイーストビレッジに住みはじめ、近所のゲイ仲間に誘われて夜な夜な出掛ける日々。そんな中で、「Club Pyramid(クラブ・ピラミッド)」に足を踏み入れ目の当たりにしたのが、ドラァグクイーンたちの「命がけの」パフォーマンスだった。

「ショーの途中で、逮捕される人もいた。警察が踏み込んでくるのね。その恐怖を知りながら、でも次の日にはまた誰かがステージにあがっているのよ」。ニューヨークでドラァグクイーンのパフォーマンスが人目に出始めたのは、1970年代(水面下ではいつからはじまっていたのかは定かではないらしい)。70年代といえば、「トランスジェンダー」という言葉の認識が広まっていった頃に重なる。心身の不一致に悩む男性や、ゲイという一般とは異なる男性が、“フェミニン性”を自身に見い出すも隠して生活している人が多く、それを解放できる場が「ドラァグシーン」で、憧れの的だったそうだ。

 80年代には、その動きはさらに活発になるが、69年のストーン・ウォールの反乱(LGBTが警察に真っ向から抵抗した暴動事件)を機に、警察やメディアのLGBTに対する重圧は増加していた。日々、誰かが摘発されていく。「逮捕されるのは今日かもしれない」。常に恐怖と隣り合わせだった。たった一つの舞台で、その先の人生が台無しになる。この時代にドラァグクイーンとして生きることは、文字通り「命がけ」だった。それでも「自分のために、仲間のために、そうやって生きていくことを決めたのよ。若さゆえもあったわね」と、当時を振り返る。

“地獄”に希望を。戦友たちよ!

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「80年代を一言で表すなら、“地獄”」。LGBTの反抗を恐れて「ホモフォビア(同性愛に対する嫌悪、拒絶、偏見)」を世間に浸透させようと躍起になる政府、メディアの圧力が最も強くのしかかったこの時代を、そう表した。さらに、ゲイのHIV感染者急増もこの世間の動きに拍車をかける。「ゲイは敵だ」「社会の厄介者」。街を歩く子どもたちにすら後ろ指をさされた。
「私の友人の多くが去っていった。逮捕される者、それから自ら命を絶つ者。とにかく、たくさんの人がいなくなった。誤解されたっていい、そう吹っ切ることは難しい。いつだってマイノリティは本当は理解を求めている。自己を解放する場所を求めている。結局は、社会に認められたいのよ」

「どうしたら、この苦しいときを乗り越えられるだろうか」。思いついたのが『MY COMRADE(同志、戦友の意)』、86年にリンダが創刊した雑誌だ。「ほとんど手作りみたいでしょ。自分たちでホチキス留めしたのよ」。クローゼットの奥から取り出したのは、雑誌というよりは小さなモノクロの冊子だ。

「モノクロは、アンダーグラウンドを表して。日陰者っていうの?日に当たらないところには、こんな文化があるんだって意味を込めてね」。コントラストの強いモノクロの写真の中、セックスアピールをするゲイたちの姿。
「最悪だったあの頃に、この雑誌でゲイたちに『一人じゃない』ということを伝えたかった。セックスアピールも、『何も後ろめたく思うことも、自分がゲイである運命を呪う必要もない』と。だって、私たちはただ自分らしく、人間を愛しているだけなんだから」

 リンダがいう「Comrade-戦友」、その言葉に込められた思い。たった1ドルのその小さな冊子は、イーストビレッジの若いゲイの間に瞬く間に広がっていった。ウェストビレッジのオールドファッションがゲイ・シンボルであった流れを変えたのは、『MY COMRADE』だったと思い返すLGBTは多い。「オールドファッションの表現はイマイチだったのね。ゲイってヒップなんだってことを、ゲイにも一般の人にも見せたかった」

世界に残す瞬間 “The Drag Explosion”

 92年、リンダをはじめとする数人のドラァグ・クイーンがホストを担当したテレビ番組をきっかけに、LGBTへの理解が一気に好転した。ゲイのエンターテイメントシーンを中心に、インタビュー、ゲイのバックグラウンドに触れるその番組は、世間のホモフォビアのしこりを少しずつ解いていく。もちろん、その番組でもリンダが得意とする「TALKING」が一役買ったことはいうまでもない。「ドラァグシーンも大きく変わった。それまで、ドラァグクイーンには“美徳”と“背徳”が混ざり合った雰囲気があった。それが、世間の理解によって“エンターテイメント”に確立されたことで、その危うさは消えた。どちらの方がいいかということはないけれど、私はいままでのドラァグシーンを忘れない」

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 リンダは昨年、もう一つの大きなアクションとして、「PAGE」という写真展を開いた。写るのは、PAGE(ペイジ)というドラァグクイーン、かつてのリンダの戦友だ。「ペイジは、屈強の時代に生きて、若くして死んだのよ」。ドラァグクイーンとして、多くの“同志”の姿を写真におさめてきた。ペイジは、その中でも最も尊敬しともに闘った一人だった。「なんとなく、よ。なんとなくぎりぎりで生きる彼らの姿を、無性におさめたかった」

 撮り続けてきた写真を“The Drag Explosion”と名付けて世間に公開。いまでは多くのメディアで露出している。リンダが一塊のフォトグラファーであったなら捕らえられなかっただろう。リンダという同志の前で、ドラァグクイーンたちは自然でいて絶妙な表情をさらけ出す。美徳と背徳の間で揺れ、人生の終わりを忘れない表情は刹那的だ。彼らが命がけで守った世界。かつてのマイノリティの生き様がいま、世界に突きつける痛々しいほどの生と美しさは、見るものの心を変える強さがある。

Photographer: Omi Tanaka  
Writer: Sako Hirano

Issue 17より

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