3歳から18歳までの30人の子どもたちが暮らす、タイ北部チェンマイのナンプレー村にある「バーンロムサイ」。自然に囲まれ、近隣に住む子どもたちとサッカーをしたり、敷地内の農園の手伝いをしたり、学校に通ったりと笑顔が絶えない生活。
幸せを絵に描いたような暮らしかと思えば、子どもたちは皆、過酷なバックグラウンドを背負った孤児たちだ。その彼らを「大きな家族」のように繋ぎ、悲壮感を感じさせない暮らしをつくりあげているのがバーンロムサイだ。
その創設者は、一組の日本人親子。その背景には、舌筆しがたい壮絶な時間があった。
「私が死んだら、子どもはどうなる?」
質素な建物の広間に並ぶ簡易ベッドの上には、子どもから老人までのエイズ患者が苦悶の表情を浮かべ、あるいはただ無表情で天井を見つめながら横たわっていた。社会だけではなく家族にまで差別を受け、ここにたどり着いて死を待つ人々だ。皮と骨だけになり、腹部に水がたまった状態ですでに絶命しているものもいた。人手が足りず、ベッドに残された遺体と、施設の外に山のように積まれてあった棺桶に、名取美穂さんは思わず目を覆った。
今年で17年目を迎えるバーンロムサイの歴史は、美穂さんがチェンマイを訪れた際に、ボランティアワークをしていた友人に何気なく連れて行かれたエイズ末期患者を看取るため、その施設に足を運んだことからはじまった。
そこで目の当たりにした壮絶な光景。帰国後、当時ヒッピーのように自由な生活をし、時間を余していた母・美和さんへチェンマイ行きを何気なくすすめた。1996年のこと。
1990年代のタイは、HIVウイルスが猛威をふるっていた。注射の回し撃ち、売春が主な感染経路。性産業が盛んな地域といえばバンコクが有名であるが、当時チェンマイのHIV感染率も同様に高かった。出稼ぎにバンコクに行き買春を覚えた夫が媒介者となり、妻から出生児へ母子感染するという、究極の負の連鎖がそこにあった。
名取美穂さん
娘にすすめられるままにチェンマイを訪れた美和さんもその実情に衝撃を受け、ただ「何か手助けができれば」と、すぐに長期滞在を決め、ボランティア活動を手伝いはじめた。その時に出会ったアンパイさんという女性の漏らした言葉が、バーンロムサイ設立を決心させることになる。
「私が死んだら、子どもはどうなるのだろう」。施設にも、路上にも、途方に暮れるHIVに母子感染した孤児が無数にいた。
「だったら、母と私で孤児院を作ろうかという話になりました。そういう施設や福祉関係で働いたこともなかったし知識もありませんでした。あるのは、救いたい、という情熱だけでした」
意外な助っ人、ジョルジオアルマーニ・ジャパン
何の知識もない母と娘が企てた無謀な挑戦ととられても不思議ではない。早くも大きな壁として立ちはだかったのは、当然ながら莫大な資金だった。しかし、二人の友人を介して手を差し伸べてくれる意外な存在が現れる。なんと、ジョルジオアルマーニ・ジャパン。
ちょうどその時期にエイズ患者の援助方法を模索していたのだという。まるで、宿命の中に吸い込まれるように必要なピースが偶然にはまりこみ、日本人が運営するHIV孤児院がチェンマイに設立されることになった。
土地を探し、スタッフを集め、コンセプトを決めるなど山ほどあるすべきことを、試行錯誤しながら一つずつこなしていった。1999年に開園に至るのだが、その後も「起きることすべてが初体験で、辛い出来事の連続だった」と、目を伏しがちに振り返る。
初回に受け入れたHIV孤児は10人。雇っていた現地スタッフとのいざこざもよく起きた。言葉、文化、考え方の違いは多くの問題を生み、人材はなかなか育たない。美和さんひとりで食事の買い物にでかけ、料理をし、子どもたちのオムツをせっせと替える状況が続いた。
名取美和さん
最も堪えたのは、子どもたちがエイズを発症し、亡くなっていくこと。発症すると徐々に免疫力が減少し、吹き出ものや口内炎が無数に現れ、衰弱していく。病院でも差別を受けるので、できるだけ園内で仲のよいスタッフや子どもたちとともに、看取った。
風の気持ちよい夜は、外にベッドを敷き、夜空を見ながら亡くなった子どもの姿もあった。その痛心は「タイ人の死生観」に和らげられたという。
「うちの日本人スタッフが泣いていると、タイ人スタッフがこういうんです。『泣いたらだめ。この子は次の世界にいくだけ。悪いカルマも背負っていないから次の世界では幸せになるわ』と」
タイ人スタッフとの、感覚の違いが起こす問題はたびたび起こった。だが、その違いに助けられたことも多い。
「現地の考え方を受け入れることで、少しずつタイ人スタッフと信頼が築けていきました」
状況を一変させたのは、エイズ発症を抑えられる抗HIV薬が比較的安価で手に入るようになったこと。
「薬の効力がすごく、2002年に投与をはじめてから死者はでていません」とのこと。当時、エイズを発症して死の淵にいた子供たちも、徐々に回復していった。「あの時、子どもたちの生死を分けたものはなんだったのでしょうか?」。いまでも、美穂さんはよく考えるそうだ。
医学の進歩は、子どもたちの運命を大きく変えることになった。ただ死を待つのではなく、未来という言葉を意識できるようになったのだ。
バーンロムサイの役割は「子どもの命を守る」という段階から「子どもを育てる」へ。母子感染も、ほぼ防げるようになったので、HIVにかかった孤児はバーンロムサイに預けられることはなくなった。現在、HIV感染だけではなく、少数民族の孤児など、あらゆる理由で行き場のなくなった子どもたちが生活を共にしている。