「追い返すどころか最悪ムショ送り」行き場のない若きヒッピーたちを治療した唯一の“ヒッピークリニック”

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歴史的なムーブメント「サマー・オブ・ラブ」が目前に迫った1967年6月、聖地サンフランシスコ・ヘイト・アシュベリーにて。「告知は一切していません。当時はスマホはおろか、インターネットもない時代です。にも関わらず、初日そのドアを開けると、そこには数えきれないほどのヒッピーが列をなしていました」。
これは、グレイトフル・デッドのライブ会場でもなければ、カルトヒーローたちの演説会場の様子でもない。全米全土から集まるヒッピーたちを人知れず支えた、初めてにして唯一の「ヒッピークリニック」の話だ。

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聖地、サマー・オブ・ラブ。もう一つのストーリー

 ロン毛にベルボトム、足元はビーサン、頭には花。そんな出で立ちの若者たちが、聖地といわれた小さなエリアに、全米全土から10万人以上が集まったといわれる「サマー・オブ・ラブ」。1967年の夏のこと。人間性の回復を求めたベトナム戦争への反戦運動に音楽とドラッグが結びつき、「武器ではなく、花を」「ラブ&ピース」などをスローガンに、歴史的な社会現象を巻き起こした。とまあここまでは多くの人が知るところだが、発色の強い“サイケデリック”なカラーに埋もれてしまったのだろう、その裏で起こっていたストーリーはあまり知られていない。

「全米中から、ここを目掛けてヒッピーたちがやってくるわけです。その道中で怪我をした者もいれば、肺炎、喉の痛み、それから多くはバッドトリップによる精神錯乱を起こしたものです。ただ、そんなヒッピーたちを診てくれる場所は本当にどこにもありませんでした」。そう話すのは、ヒッピームーブメントの全盛期から、無料の医療を提供し続けて50年以上、いまでもその聖地に現存する「ヒッピークリニック」こと「The Haight Ashbury Free Clinic(ザ・ヘイト・アシュベリー・フリー・クリニック)」の創始者ドクター・スミスだ。「普通の病院は汚れたロン毛の若者が来るや否や追い返し、それが違法ドラッグ中毒者であろうものなら拘束、そのまま刑務所送りなんてこともザラにありました」。行き場のない傷を負ったヒッピーたちを唯一受け入れるだけでなく、無料で治療を施すという信じがたいことを提供していたのが、他でもないこのヒッピークリニックなのだ。

診療所を開業した“医学生”

「医大入学当初は、“普通の医者”として将来を見込まれていたんですがね」。その出立ちや愛でる音楽は近いものの、大学入学当時のドクター・スミスは“ヒッピーマインド”にどっぷり浸かるような若者ではなかったとか。だが、多くのヒッピーたちがそうであったように、LSDによるスピリチュアルな経験をしたことで、次第にその人生の行方は大きくシフトチェンジ。「私の人生観は驚くほど変わったわけです、他の若者たちと同じようにね。そしてその私には、たまたま医療スキルが備わっていた」。

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若き日のドクター・スミス。

 当時、治療を受けられないヒッピー問題は深刻化するも社会は見てみぬふり、ディガーズ*が医療提供にまで手を伸ばそうとするも管理できず。そこで、まだ医大に在学中だったドクター・スミスだが、一人の医師と、それからボランティアの名の元に集まった医大生や看護学生とともに、1967年の6月7日ヒッピークリニックを聖地ヘイト・アシュベリーに開業。冒頭でも述べたように、告知は一切ナシにも関わらず、開業初日から長蛇の列にクリニックは24時間フル稼働。1日に250人〜350人の治療にあたったそうだ。

*ヘイト・アシュベリーにて発足されたアナーキズム集団。「フリー」を合言葉に食べ物や、宿泊施設、銀行、さらにはLSDまでもヒッピーたちに無料で提供。

 当時のヒッピークリニックを知るものが口を揃えていうのは、「医療費がfree(タダ)だっただけではなく、その空間そのもの自体が“non judgemental(偏見を持たない)”、つまりfree(自由)な空間だった」。壁にはとあるヒッピーが描いたタイダイ柄に、ラバランプが設置され、BGMはもちろんサイケデリックミュージック。「彼らは病院からだけでなく社会からも敬遠され、くわえてバッドトリップにより精神的にも不安定。だから、彼らには治療できる場と同時に、安心できる場が必要だったわけです」

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ロックンロールのうえに成り立った運営

 ヒッピーカルチャーがいわゆるカネで成り立つ社会に対する代替案として生まれたカウンターカルチャーであったとしても、治療に必要となる医薬品になんかは、まさにその“社会”で作られたものであるわけで。気になるのは、いかにして無料の医療を提供し続けることができたのかという点だが、「信じられないかもしれないですが、このクリニックはロックンロールのうえに成り立っていたのです」。開業当時の運営資金は、何を隠そうロック史上最大の裏方と言われる伝説のプロモーター、ビル・グレアムや、ヒッピーカルチャーのエポックメイキングなミュージックフェスティバルの一つにあげられる「モントレー・ポップ・フェスティバル」をプロデュースしたルー・アドラーを中心に、グレイトフル・デット、ジャニス・ジョップリン、ジェファーソン・エアプレイン、カルロス・サンタナなどヒッピーカルチャーを大きく扇動したミュージシャンらによる寄付でまかなわれていたという事実に、開いた口も塞がらない。

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 それだけでなく、治療に携わる医大生や看護学生をはじめとするボランティアメンバーは100人を超え、必要となる医薬品はこの活動に賛同する薬剤師によって提供された。「いま、同じことをやろうと思ってもできないでしょう。社会システムや規制とやり取りしなければいけませんから。世界が違いすぎます。無いなりにみんなが集まって助け合えた当時は、魔法のような時代だったんです」

ヒッピーカルチャーの衰退、変わらない信念

 紛れもなくヒッピームーブメントと持ちつ持たれつの関係でどうにかやってきたヒッピークリニックだったが、その後のヒッピーカルチャーの衰退、そしてそれにとともにやってきた聖地の荒廃に幾度となく骨が折れた。
「お金の面では苦労したのはもちろん、それまでこのクリニックが閉鎖の危機に晒されるようなことをするものは誰一人としていなかったのですが、衰退期に差し掛かったときに評判の悪い人たちがたむろうようになってしまってね。たとえば“マンソン・ファミリー”で知られるチャールズ・マンソンとその取り巻きなんかね」。それまで“ドラッグは院内に持ち込まない”という掟も、彼らによってやすやすと破られ、その取り巻きから殺人脅迫され、警察に駆け込むも「実際にことが起きるまではこちらでは何もできませんよ」とシャットアウト。最終的に、かの有名なモーターサイクルギャング、ヘルズ・エンジェルズの創立者の一人ソニー・バージャーの計らいによりなんとか事なきを得た、なんていう出来事もあった。「この手のストーリーだったら、数え切れないほどありましたよ」

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 数多くの賛同者とともに幾多の窮地を乗り越えてこれたのも、発足から今日までに続く彼らの理念であり信念、「Health Care is a right, not privilege.(医療は特権ではなく、“権利”である)」があったからだ。ヒッピーの姿を目にしなくなった現在でも、聖地にてホームレスを中心に無料の治療に尽力する。
 彼らが半世紀も前から掲げ実践し続ける信念はいま、ザ・フリー・クリニック・ムーブメントとして伝搬し、現在では全米で1,200を超える無料医療を提供するクリニックが存在、かの米国元大統領オバマ氏もオバマケアのスローガンに引用した。隔てなく唱えられたその信念こそ、人間性を回復するための一番の特効薬だったに違いない。 

Interview with Dr. David Smith

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All Photos via Dr. David Smith
Text by Shimpei Nakagawa
Content Direction & Edit: HEAPS Magazine

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