日系ギャラリーはNYで生き残れるのか

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ギャラリーディレクター / Shuhei Yamayani

「家から出られない鬱状態に陥っていた」
結果にこだわり、がむしゃらに走り続けてきた男の「沈黙の6ヶ月」。気づけば心と身体のバランスが崩れ、何処までも続く深い穴に落ちていくようだった。彼がもう一度立ち上がるために選んだ道は、ギャラリスト。アーティストと向き合うその生き方は愚直、それゆえ不器用だ。アート激戦区のニューヨークで二度、ゼロからギャラリーを立ち上げた山谷周平(45)。ニューヨークへこだわり、アーティストと共に生きる彼の人生に迫る。

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 星の数ほどのギャラリーがあるアートの街、ニューヨーク。当然、競争も激しく、飽きられたモノは容赦なく淘汰されていく。その判断の軸は、今なお西洋の価値観に基づくものが多い。“日系”のギャラリーが生き残るのは容易ではない。そんな中、「hpgrp GALLERY NEW YORK」は今年で11年目。現代アートの中心地、マンハッタンのチェルシー地区に広々としたスペースを構える。世界中のアクセサリーや洋服をはじめインポートアイテムを取り揃える日本のアパレル会社「H.P.FRANCE(アッシュ・ペー・フランス)」のギャラリー。立ち上げからその運営を一任されているのは、ディレクターの山谷周平だ。

「売れるアートしか展示しない」。そんなギャラリーが多いという。しかし、「うちのギャラリーはあくまで、H.P.FRANCEの世界観の一部としてアートを取り扱っているので、売れ筋とか流行に左右されることは少ない」と、同ギャラリーの強みを語る。

 山谷に、今日までの10年の心境を尋ねると、沈黙してしまった。そして間を置き「やっぱりアートを売る、つまりビジネスとしてカタチにするのは大変ですよ」とポツリ。思わず出た本音だったのだろうか。自身の言葉に苦笑いを浮かべる。「アートは生活必需品ではないし、毎日売れるものではない。本気でやらないと」と、熱い想いを語りはじめた。山谷のいう「本気」。それは、アーティストの想いやこだわりと真摯に向かい合い、世に伝えていく自身の役割に対するものだ。「結局、アートも人間性じゃないかと思います。人が創るモノだからこそ、それを創る人がどう生きてきたのかが、必ずアートにも出ます」。己の道を切り開いてきたアーティストを深く理解し惚れ込む。それはH.P.FRANCEの価値創出を担ってきた男の生き様だ。

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「生きよう、外にでよう、仕事をしよう」

 ニューヨークへやってきたのは1993年。24歳だった。「なんとなく英語が勉強したかった」と半年の留学のつもりだった。しかし、通っていたコミュニティカレッジで写真を教える教授に出会い「写真を勉強してみたい」という思いが芽生えた。それを機に、ブルックリンにある美術大学の名門「Pratt Institute(プラット・インスティテュート)」へ進学。卒業後も写真家としてニューヨークで勝負しようと決めていた。

 90年代後半から2000年代はじめにかけて、ニューヨークを拠点にフリーの写真家として活動。ニューヨークは刺激的で楽しい。だが、「正直、心底楽しいと感じられたのは最初の2、3年だけ。5年も経つと不安の方が大きくなった」と当時を振り返る。傍目には、こなれた生活を送る“ニューヨーカー”だが、一方で、沸々と大き
くなる「社会的ステイタスがない」という焦りと空しさ。自分が何者かを考えれば考えるほど「日本人」であり、「異国からきたよそ者」という意識が強くなる。アメリカ人になりたかったわけではない。ただ、胸に熱いものはあるのに、この街で何をしてどうなりたいのか、道が見えなくなった。

「とにかく結果を出さないと」。自身にプレッシャーを与え、追い込んだ。しかし、気づくと家から出られないほどの鬱状態に陥っていた。「知らず知らずのうちに無理のある生き方を突き通したツケがまわってきたのかもしれない。必要なネジがどっかにいってしまって思考が停止した」。そんな状態が6ヶ月ほど続いていた山谷。この「沈黙の6ヶ月」から救い出してくれたのは、現地でアーティスト活動をする学生時代からの友人たちだった。「この街で生き残りたければ、外へ出て仕事をする。それがどれだけ面白いことかを僕に見せてくれたんです」。自分だけの価値を生み出すことに貪欲で、何もない「ゼロからイチ」を生み出す友人たち。それを彼らは楽しんでいるように見えた。人間関係も、仕事も、自分で構築するもの。彼らの姿を見て、そう気づいたとき、山谷に「もう一度動き出そう」という想いが宿った。

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海外で「好き」を仕事にする術

 フリーの写真家として再び活動を続ける一方で、30代半ばだった山谷は結婚を機に、より安定した仕事を模索した。「あの時、僕にあった活かせる知識やスキルというのはアートスクールで学んだこと、それが全てでした」。美術大学で学んだノウハウ、アーティストとの繋がり、経験から養われた審美眼。それらを武器にできる仕事として、「何ができるかを考えたとき、自分でアートギャラリーを経営すること」だった。

「雇われて働く選択肢は僕にはありませんでした。たとえば、人気のギャラリーでディレクターを一名募集していたとして、経験もなく、英語力もネイティブには及ばない僕が、そのポジションを勝ち取れる確率はゼロに等しい。だから、僕がギャラリストになるには、自分で自分のポジションを創るしかなかった」。躊躇がなく、冷静。だが、その発想と見極めは大胆だ。「ないならば、創ればいい」という発想は実にアメリカ的。これもこの街で揉まれて養われた力。山谷はマンハッタンのトライベッカ地区にギャラリー「Desbrosses Gallery(デスブロッセス)」を開業した。

何を軸に身の振りを決めるのか

 ギャラリー運営の頭金は両親に借り、めぼしいアーティストを大学の友人や教授に紹介してもらうなど、周りからの助けがありオープンにたどり着いた。しかし、土地の高騰や業界の競争率は並ではない。現実は厳しかった。「来月のギャラリースペースの家賃が払えるかの不安はずっとつきまとった」とこぼす。自身の写真活動も続けたかったが、「それどころではなかった。開業以来、写真は全く撮っていない」と明かす。

「潮時か」。そんな言葉が頭をよぎるようになった05年、山谷に転機がおとずれた。H.P.FRANCEの代表取締役の村松孝尚氏が、山谷のギャラリーを訪問。村松氏はグルッとギャラリー内を眺めたあと、山谷にこう尋ねた。「うち(H.P.FRANCE)のミートパッキングの店舗の2階にスペースがあるので、そこでギャラリーをやりませんか」

 話をきくと、H.P.FRANCEが今後の同社のブランディングにおいて「アートをサポートしていく活動が不可欠」だといい、ニューヨークでギャラリーを運営することに興味を示していた。パリやニューヨークで見つけた、「まだ触れた事の無い、新しい時代の価値」を「H.P.FRANCEブランド」として世に送り出してきた同社。海外にギャラリーを持つことで、その独創的な審美眼をもっとアートとして世に表すことができるかもしれない。だが、ギャラリーの存在意義を確立できるかは山谷の手腕次第。プレッシャーは大きかったが、H.P.FRANCEのスペースでギャラリーをやることができれば「もっとアートに集中した仕事ができる」と胸が高鳴った。「それに、ギャラリーの立ち上げ、つまりゼロをイチにするという点では、自分が何もないところからギャラリーをはじめたのと同じこと」。自身の経験が活かせると山谷はギャラリーをたたみ、新境地での挑戦へと踏み切った。

「ただね、最初からH.P.FRANCEに惹かれていたというよりは、時間をかけて少しずつ村松社長の考えや彼の魅力を理解していった感じでした」。入社して最初の5年は、自分の役割をまっとうしつつ「あとは流れに身を任せていた」と、答えや結果を急がなかった。それは、その流れが自分のやりたいことの方向性としては間違っていないという感覚があったから。10年の時を経て今、山谷の審美眼は着実に
「H.P.FRANCEの“色”になってきている」と嬉しそうに語った。

アートとニューヨークとのつき合い方

 現在、山谷が最も注力しているのが、H.P.FRANCEが発信してきた価値に影響を受けて育った日本のアーティストとクリエイターを海外の市場に発信することだ。「H.P.FRANCEは80年代からずっと質やデザインなど、海外のクリエイターの
『こだわり』に価値をつけて日本に発信していくスタイルを貫いてきてきました。その『こだわり』にインスパイアされて育った若いクリエイターが日本で増えてきている。その彼らの作品を世界に広めたい」

 ニューヨークに来て22年。ビジネスでもアートでも、ニューヨークは、自分しか生み出せない価値をゼロから創り上げることに貪欲にさせられる街。山谷は、この街で人生を我流でかき分け、自身の価値を創り出してきた。「ニューヨークは、どこよりも圧倒的にエネルギッシュなアーティストが多い。彼らの近くにいたい」。これからも山谷は真っ直ぐにアーティストを愛し、ニューヨークで生きてゆくのだろう。

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hpgrp GALLERY NEW YORK
hpgrpgalleryny.com

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