機械生産できないネオンビジネスを支え続ける男

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ネオンは消えない、柔らかな灯りは永遠に

「ネオンサインは時代と共に姿を消しつつある」。そう言われて久しいが、ネオンの灯りは本当に街から消えてしまうのだろうか?上空に放たれた闇夜を貫く色とりどりのネオンの輝き。それは「繁栄の象徴」として、人々に日々の生活が豊かになっていく実感を与えていた。だが、省エネ、低コスト、大量生産…、そんな容赦ない時代の波の中で、機械生産できないネオンサインは絶滅の危機を迎えている。だから今一度、考えてみたい。ネオンサインの魅力、そして人はなぜ、ネオンの灯りに惹き付けられるのか。

「ネオン街」と表現されるその光、本当にネオン?

 ネオンサインといえば、ラスベガス、タイムズスクエアなどアメリカのイメージが強いが、発祥地はフランス。諸説あるが、1912年のパリ万博で公開されたのが最初だといわれている。その輝きは、20年代にアメリカに持ち込まれ、30年代には全盛期を迎える。

 “光の洪水”、タイムズスクエアも、その昔は、大きく道路にはみだしたネオンサインが競うように重なり合い、柔らかに瞬くノスタルジックな光景だった。だが、第二次世界大戦後、安価で大量生産が可能な蛍光灯にその座を奪われ、近年はLED、そして数秒ごとに億単位の広告を売ることができる巨大な電光掲示板が主流。そう、「ネオン街」と表現される街の光は、もはやネオンではないのだ。「ネオンサインはなくなってしまうのか?」。その問いに「NO」ときっぱり答えるのは、ネオンサイン工房「Let There Be Neon」のオーナー、ジェフ・フリードマン(Jeff Friedman)。彼の言葉を裏付けるように工房には、「Levi’s」や「Barneys New York」「Kiehl’s」など大手企業の新作ネオンサインがところ狭しと並ぶ。2014年の収益は「過去最高額が見込めそう」とジェフ。ネオンサインは消えるどころか、リバイバルしている。

アートに価値を見出したネオンビジネス

 省エネ、低コスト、大量生産、均質化…。そんな時代の波が押し寄せる中で、もし、ネオンにモノを売るための商業サインとしての価値しかなかったとしたら、お役御免と言われてもしかたがない。だが、「ネオンの価値は,本当にそれだけのものなのだろうか?」と、世の中に問題提起するかのように、アート作品にネオンを使用した新進気鋭のアーティストがいた。今は亡きルディ・スターン(Rud Stern)。60年代の時点で既に、街から消えつつあったネオンサインをリバイバルさせようと、1972年、ソーホーの空きスペースを工房兼ギャラリーとして使いはじめた。それが「Let There Be Neon」のはじまりだった。

 面白いことに、ルディが工房に集めた人たちは皆、画家、彫刻家、ファッションデザイナーといった、ネオンに触ったことのないアーティストばかりだった。アーティストの前にネオン管を置いたらどうなるか。ルディは確信していた。「ネオン × アーティスト。その化学反応にこそ、ネオンビジネスの未来がある」

 それまでネオンサインといえば“文字”だった。しかし、ルディたちは、「BURGER」のネオンサインの依頼なら、バーガーの“絵”をネオンで作り、ストリップクラブからの発注であれば、「ストリップ」+「店名」ではなく、「ブロンドガールがヌードで寝そべる姿」を作った。ネオンの自由自在さ、カラーバリエーションの多さを見せつけ、ネオンサインの可能性を広げたのだ。

 より目を引くサインの元に人が集まり、店が繁盛するようになると、依頼主たちも「ウチには、あれより大きくて、色もデザインも派手でユニークなモノを頼む!」と動きだした。そんな風潮から、ネオンアーティストたちも、技術とアイデアを競い合うようになり、「ネオンはアートに昇格していった」とジェフ。彼も70年代後半からルディのもとで働く、いちアーティストだった。

 その頃のニューヨークといえば、「カルチャーの中心地」として君臨していた。伝説のクラブ「スタジオ54」の初代ネオンサインをはじめ、ブロードウェイミュージカルショーのサインなど、「話題の場所には、必ずルディが作ったネオンサインがあった」と、その功績を讃える声を聞く。

この場所を離れたら、ネオンビジネスは終わる

 90年代になると、ルディは再びアーティスト活動に専念するため、店をジェフに託し、ネオンビジネスから手を引いた。丁度その頃、店があったソーホーの家賃があがりはじめ、ジェフは隣のさびれた倉庫街、トライベッカに移ったが、家賃高騰の波は直ぐに押し寄せた。「うちらみたいな専門店は、ブルックリンに渡るか、店をたたむかの選択を迫られた」と、マンハッタンでのビジネスの厳しさを語る。

 だが、「ブルックリンに渡ってたまるか!」と、トライベッカでの生き残りの術を模索したジェフ。“ネオン限定”というニッチな看板ビジネスから、ネオンだけでなく需要の高いLEDも取り入れ、オーダーメイドからレンタルまで、依頼主の幅広い要望に対応しうる事業体制を作りあげた。

 そんなジェフのやり方には「お前は金になる事業に魂を売った」などの批判もなかったわけではない。しかし、ジェフはこう言う。「この場所を離れたらネオンビジネスは終わる」。それは、常連の顧客企業のほとんどが、最新ファッションが集まるソーホー、経済を司るウォール街と徒歩圏内にあったからだ。依頼主にとって、会社からサクッと立ち寄って相談できる店であることは、重要な付加価値の一つ。「今度こんなプロジェクトがあるんだけど」という相談に対し「明日までに試作品を作るから見に来て」といえるスピーディーさは、店の強みでもあった。さらに、A社の担当者が、B社、C社へと転職しても、いつも自分の店を使ってくれる。その結果、A、B、C社すべてが顧客企業になり、ビジネスが拡大したというケースがある。それゆえに、土壌を築いたこの場所を離れるわけにはいかなかったのだ。


 夜になると、ウィンドウに飾られたネオンサインのあの独特のやわらかい光に誘われ、「バーだと思って入ってくる人が多いんだよ」とジェフ。そんな洒落たネオンサインを、インテリアとして購入する人も多い。また、結婚式のウェルカムボードや、「これから生まれてくる子どもの名前をネオンで作って!」など、個人からの依頼も増えているという。いつの時代もカッコイイものは色褪せない。ゆえに、「ニューヨークの街からネオンが消えることは絶対にない」。その言葉には妙に説得力があった。


Photographer: Kuo-Heng Huang
Writer: Chiyo Yamauchi

Issue 14 掲載

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