「アウェイ」になって、強くなる

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レストラン経営者 / Gaku Shibata 道なき道をいく男、柴田学(43)。1990年代初頭、人々が英語圏への留学を夢見ていた中、単身北京の大学へ。帰国後は中・英・日の3ヶ国語を駆使し、若干26歳で起業した、行動派だ。現在は、ローワー・イースト・サイド(以下、L.E.S.)で、現地の食通の米国人たちを惹き付ける高級居酒屋と大衆居酒屋の2店を営む。そんなやり手であるにも関わらず、「俺は子どもの頃から日陰者」と自身を評価する。謙遜とはまた違う、周囲の称賛を受けつけない、バリアのようなものを張っている。そんな彼のルーツをひも解いて見えてきたのは、10代で経験した金銭面での苦労、キャリアウーマンの米国人妻との“格差婚”、30歳を過ぎてからのヒモ生活など、逆境の連続だった。

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セーフティーネットのない環境

 現在、「週7日、1日15時間働いている」と話す柴田。“くすぶり期間”が長かった分、「忙しいのは嬉しいね」と、その顔は実に活き活きしている。やりたいことで商売がうまくいっているのだからそれもそのはず。だが、自分の居場所を確保して「安心するために働いてきたのも、否定はできない」と、背負ってきた影を明かした。「頭もたいして良くないし、スポーツができるわけでもない。リーダータイプでもなく、かといって不良だったわけでもなく、スポットライトとは無縁だった」。目立たないことは悪いことではないが、柴田は過去の自分のことを、決して良くは語らない。

 高校生の頃、父親の事業が失敗。金銭面で頼れる人はなく、その危機感から「働くのは当たり前のこと」だったと話す柴田。高校卒業後は、トラックドライバーや警備員、飲食店など、アルバイトを掛け持ちする生活だった。「忙しく働いてはいたが、なんとも無気力で、人生を半分諦めていた」と、当時を振り返る。大学へ進学した友人たちが新しい出会いや飲み会に心を踊らしていた姿は、眩しすぎて見ていられなかった。

「何かを変えたい」 新天地へ

 心のどこかでは「自分を変えたい、今の人生から抜け出したい」と思っていた。そのため葛藤もあったが、家族を思うと「俺も大学に行きたい」など、そう簡単に夢や憧れを口にできなかったのだろう。いくつもバイトを掛け持ちし貯金ができたとき、柴田は「米国に行きたい」と、やっと周囲に相談するようになった。だが「それじゃ(金額的に)、もって3ヶ月だな」といわれ、希望はしぼみ、さらに「ふて腐れて」いった。そんな様子をみかねたのか、母親がある日、「中国の大学だったら、かなり安い学費で日本人の留学生を受入れてくれるみたいよ」と、広告を手にさりげなく勧めてくれた。中国には全く興味はなかったが、20歳の柴田はとにかく何かを変えたかった。

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嫌なら笑わない。

 1980年代後半から90年代初頭、バブル経済で留学ブームだった日本。だが、人々の眼中にあったのはもっぱら英語圏。そんな中、単身92年に北京へ乗り込んだ柴田は、まさに「アウェイ」だった。中国語(マンダリン)も話せず、友達もいない。20年間の人生で一度も本気で何かに取り組んだことがなかった自分を振り返りながら、「ここで踏ん張らなかったら、俺はここでのたれ死ぬんだろうな」と、母国では感じたことのない強い焦りを覚えた。これが「過去の自分」と決別したきっかけになった。まずは「言語から」と、必死で勉強し、なんとか現地の4年生大学へ入学。友人もでき、コミュニケーションがとれるようになるにつれ、文化の違いを痛感することも増えた。自分が思ったことは言葉や態度でちゃんと伝えないと、自己主張の強い中国人に押されっぱなし。 「俺、本当は嫌なのになんで笑ってるんだ?」。自分が当たり前のようにしてきた、周囲に同調する“日本人らしい”習慣について、はじめて疑問に思った。誰も空気なんて読んでくれない。都合の良いように解釈されたり勘違いされるだけ。言語の次に学んだ海外で生きていく術は、「思ったことを伝える大切さ」だった。「これは今も本当に重要なことだと思う。これを若いときに経験できたのは大きな財産」 26歳、

「会社に居場所がない」ので起業

 1996年、大学卒業後は日本へ帰国。海外経験を買われ、すぐに大手運輸会社への就職が決まった。だが、独特の縦社会の雰囲気に馴染めず、入社2ヶ月で退社。「中国で受けたカルチャーショックを克服して帰国したら、今度は日本で逆にカルチャーショックを受けた」。母国へ帰ってきたにもかかわらず、肩身は狭かった。無職になるとまた、バーテンダーやテレアポなどのアルバイト生活へ。この時、すでにどこかの企業に再就職するつもりはなかった。「会社という組織の中に俺の居場所はない」。ならば、自分で自分の居場所をつくるしかないと、起業を決意した。 まずは、アルバイトを継続しながら、自宅で中国語の翻訳関係の仕事を開始。同時に親類から借金をして、なんとか開業資金のめどをつけ、26歳のときに会社を設立した。その翌年には東京の新橋に中国語学校を開校。「それが丁度、当時の中国語ブームにのって」と、借金返済に時間はかからなかった。99年には成田空港などで外国人向けの日本土産の販売をはじめた。きっかけは、香港に行ったときに空港で見つけた“毛沢東腕時計”。「日本の寿司やサクラ、相撲などをポップにデザインした腕時計を、中国で作って日本で売れば儲かるかも」というアイデアは、まさに中国アウトソーシングの先駆けだった。「大学時代の中国ネットワークと語学力を活かせばいろんなビジネスができる」。そこからが柴田の真骨頂。持ち前の行動力を活かし、次々と日本未入荷の海外人気商品を中国へ持っていき類似品を発注。今思えば「人には言えないギリギリのビジネスもあったね」と、言葉を濁す。

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6年越しの文通愛を実らせ結婚

 次から次へと新ビジネスに着手していた2000年、プライベートでは6年間の遠距離交際を経て結婚した。相手は、北京の大学時代に出会った、米国人留学生のクリスティだ。携帯もメールもなかった時代、国際電話も高かったので連絡は文通が主。「愛を伝えるために、必死で英語を勉強した」とはにかみ、惹かれ合った理由については、「お互い母子家庭だったこともあってか、独特のハングリー精神があってね。言葉の壁があるにもかかわらず、打ち解けるのに時間はかからなかった」と語る。 結婚して妻のクリスティを日本に迎えて5年の月日が経ったとき、金融業界でキャリアを築いていた彼女に、米国の大手放送局から仕事の依頼がきた。彼女にとって良い誘いだったのはもちろん、行き先は、柴田が子どもの頃から住んでみたかったニューヨーク。「両親の影響で、マイルス・デイヴィスの大ファンで。もう、それだけで“カッコイイ場所”と思い込んでいてさ」。この話をきっかけに柴田は会社をたたむことを決めた。 驚くことに、柴田は自身がゼロから築いた会社を手放すことに「未練はあまりなかった」という。「辞め時がきたら辞める。捨てないと新しいものにいけない」、「なくて元々」。金にも過去にも執着しないのが柴田の信条だ。 だが、米国で自分に何ができるのかを考えたとき、米国がいかに学歴社会であるかを知っていたため、「本場の日本食店をやろう」と思い立つ。日本で中国文化を紹介するビジネスが上手くいった経験、そして、「飲むのが好き」という自身の趣味も兼ねてのことだった。やりたいことが決まるとすぐ、六本木の和食屋で板前修業をはじめた。このとき柴田は30歳。さらに、アルバイトの経験はあっても飲食店の経営経験はなく、ましてや夢は「ニューヨークで経営」。「そんな状態で、ゼロから板前修業なんて、我ながらイカれてるなと思う」と自嘲するが、柴田を突き動かしたのは、ニューヨークにはもっと良い居場所があるという期待だったに違いない。なぜなら、当時一緒に働いていた仲間の三浦淳也氏と殿重健治氏には「俺は絶対ニューヨークで店をやるから、それまで待っていてくれ!一緒に店をやろう」と告げ、ニューヨークへと旅立ったのだから。

社長から一番下っ端へ

 ニューヨークで生活をしはじめた2005年、柴田は35歳だった。板前として働くため、まずはマンハッタンにある日本食店の戸を叩いた。もちろん、どこへいっても一番下っ端のポジションからスタート。「米国とはいえ、この世界は経験年数がものをいう縦社会。分かってはいたけれど、年下の先輩に見下された物言いでこき使われると、さすがに腸(はらわた)が煮えくり返る思いだった」
何を言われても「はい」と答えるのが、ここでは正しい。頭では理解していても、プライドが邪魔をする。日本では自身で会社を立ち上げ社長としてやってきたという自負があり、35歳という年齢もあった。「いらぬ自尊心が自分を苦しめた」と語る。包丁を投げ捨て、相手の胸ぐらを掴み殴り倒したい気持ちを押さえきれないこともあった。「恥ずかしい話だね」と笑った。渡米2年後、柴田の仕事が思うようにいかない一方で、妻には出世のチャンスが訪れた。ニューヨークの対岸、ロサンゼルスへの転勤が決まったのだ。柴田はニューヨークにいたい思いと、妻のキャリアを応援したい気持ちの間で揺れたが、結局、妻の夢を優先しロサンゼルスへ一緒に行くことに決めた。だが、「妻のサポートに徹する」と、腹をくくりきれていたわけではなかった。

どん底のヒモ生活

 ロサンゼルス時代の自分は「妻に着いてきたヒモ男」という柴田。レストランのキッチンで働いてはいたが「時給なんて最初は7ドル50セント(約750円)。あがっても10ドル(約1,000円)の世界だからね」。妻の会社のパーティーに出席しても、自分の肩書きは「クリスティの旦那さん」でしかなかった。柴田を気遣い、「旦那は日本で修業をしてきた本場の寿司職人なの」と立ててくれる妻の優しささえ煙たく思えた。孤独と不甲斐なさから毎晩飲んだくれ、吐く言葉すべてがネガティブ。酒の勢いで「お前ばっかり良い思いして、何だよ! こんな生活もう耐えられない」などと暴言を吐いたことも。だが、「奥さんは頭の良い人でね」。決して柴田からの喧嘩を買うことはなく、「そっと、うまく回避してくれた」。ニューヨークへ戻りたいと思っていた頃、再び妻のニューヨーク転勤が訪れた。そしてニューヨークへ戻り、柴田がひしひし感じたのは、「(ニューヨークは)やっぱり肌に合う。他人にジャッジされないのが楽で居心地が良い」ということだった。戻って来ることができた喜びと、渡米してからのやさぐれた生活への背徳心が、柴田を駆り立てた。「そろそろ本気でやりたいことをやらないと」
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渡米8年、ついに手にした自分と仲間の居場所

 店をはじめるための資金調達、物件探し、ライセンス取得など、開店準備に奔走。そして、その1年半後の2012年、日本での修業時代の友人、三浦氏と殿重氏を呼び寄せ、念願の自身の店「夜波来(よっぱらい)」をL.E.Sにオープン。自身の店をやるという夢を実現できたこともそうだが、なにより「三浦と殿重との約束を果たせたことが嬉しく、さらに8年もかかったのに二人が自分を信じていてくれたことが胸に響きました」。 「手作り」にこだわり、豆腐から塩辛、納豆やぬか漬けに至るまでオリジナルの味で勝負。それらを肴に厳選された日本酒を美味しくいただく大人の隠れ家居酒屋だ。今では「玄人筋が支持する店」と評価される人気店だが、「辛抱」の時間があった。質にこだわればその分価格が上がるのは仕方のないこと。それを分かった上で質にはとことんこだわった。だが、「下町のL.E.S.にしては高すぎる」とかなり叩かれた時期もあった。しかし、「夜波来」ならではの贅沢な酒の楽しみ方を理解してくれた人たちは、必ず戻ってくると信じ続けた。そして、それが間違っていなかったことを実感すると、「L.E.S.で日本食ファンの裾野をもっと広げたい」と考えるようになった。

 その思いをカタチにしたのが今年4月にオープンしたカジュアル居酒屋「AZASU(アザス)」だ。気軽に楽しめる店として若者を中心に賑わいをみせている。中でも彼らを惹き付けているのがカップ酒だ。「ビンが欲しいがために、『もう一本』って頼む若者もいるんだよ」と柴田の顔がほころぶ。 社会の中での自分のポジション  子どもの頃から「社会の中での自分のポジション」をよく考えていたという柴田。陽のあたる場所があれば、陰もある。表舞台で働く人もいれば、裏舞台の人もいる。自身を「日陰者」とする柴田だが、彼はやはり、じりじりと照りつける太陽の下へ出て、自らで道を開拓する者だった。でなければ、海外へ飛び出し、起業し、新しいスタートを恐れずに歩んでこれるはずがない。そして、ニューヨークで自分の居場所を作った。彼の2軒の店には連日、明るい笑顔の客が溢れている。これからも柴田は、自分が置かれた社会の中での自分のポジションを考えながら、「もっと」のハングリー精神で、過去を振り返らずに前に進んでいくのだろう。

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Yopparai
151 Rivington St. (between Clinton St. & Suffolk St.)
TEL: 212-777-7253
yopparainyc.com/home.html


Azasu
49 Clinton St. (between Rivington St. & Stanton St.)
TEL: 212-777-7069
azasunyc.com

Photographer: Kuo-Heng Huang
Writer: Chiyo Yamauchi

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